藤本一司『倫理学への助走』

 家に帰ったら藤本一司さんから本が届いていた。藤本さんの2冊目のご著書である。藤本さんとの交流は、1冊目のご著書をいただいたときの日記に書いてあるのでくり返さない。短期間に2冊出すのは、なかなかたいへんなことだ。自分なりの執筆意欲に気づき、仕事が進んでいることは、お年賀状にも書かれていた。前作といっしょで、自分のことばで古典を読みほどき、一つ一つことばを選びながら、ものを考えた結果が、まとめてある。副題に、「わかる」と「わからない」のあいだ、とある。カント倫理学について論文を学会誌などの書いてきた人が、「あいだ」について書いたというんだから、時間をかけてじっくり勉強しなくてはならないと考えている。

倫理学への助走―「わかる」と「わからない」のあいだ

倫理学への助走―「わかる」と「わからない」のあいだ

内容

「わかる」ことにも「わからないこと」にも、その両極のどちらにも決して振り切れてしまうことのない「倫理」を探求。カントが言う意味での「うぬぼれを打ちのめすこと」を照準とした本。

目次

序章 「わかる」と「わからない」の「あいだ」
第1章 「うぬぼれ」と「無意識」
 「正しい」と「正しくないかもしれない」
 「私は邪悪である」の射程
第2章 「善いことをする」は善いか
 「人の身になる」とは?
 「善い」の根拠を問う
第3章 「悪」にどのように向き合うか
  悪を排除する
  悪を認める
第4章 「倫理」は、すでに決着済みか
 「倫理」は「いつでも・どこでも・誰にでも」の規範か
 「平等性」は「倫理」を基礎づけられるか
第5章 「倫理」と「未知性」
 「わからない」なら、「責任」はとれないか
 「他者の未知性」と「倫理」
第6章 「私」の解体と再生
 「私」を「限界づける」ものが、「私」を支える
 「倫理」と「主体性」

 思想の最前線でしのぎを削っている人々に対して、猛然と競いかけるような本ではない。プロレゴーメナとかゆう名詞を冠して、唇をみにくくゆがめてレトリックを繰り出すようなことはしていない。弱さだなんだといいながら猛々しく知識や論理が並べたてられているわけではない。頭よしおクン的なものは、チラリズムとしても見出すことはできない。かといって、最果ての高専の食堂を気負っているわけでもない。しかしである。コツコツと積み上げてきた思索の星座が書き付けられた本は、にわか勉強で星座とかブログに書いちゃう軽薄さとは無縁であり、一定数の読者の共感を得るのに十分なものであると考える。
 それにしても、「うぬぼれを打ちのめすこと」とはまた、ベタな言い方だなと思わないこともなかった。そして、藤本さんは、知り合ったときから20年以上、まったくここからぶれていない。最近の若者のことを視野に入れて言っているわけではないだろう。それを、「あいだ」という観点から問題にする。最近読んでいる戸坂潤の和辻「間の倫理」批判などを想起した。「程(ほど)」という観点がそこには示されている。わけわかめになってこねくり回していたのだが、藤本さんの本をめくってみて、一つのヒントをいただいた気がした。

日本的哲学という魔―戸坂潤京都学派批判論集

日本的哲学という魔―戸坂潤京都学派批判論集

 藤本さんは、私のような者には意外なくらい、学生については書いていない。カントについてのご著作を書き上げられたときにとってあるのだろうか?種明かしは、出してからのお楽しみとしておこうと思う。