社会学的想像力ノート3 translation

社会学的想像力 (ちくま学芸文庫)

社会学的想像力 (ちくま学芸文庫)

 パーソンズについては、「どんな心ない批判を受けても、なぜそれを言われたかを常に考え抜いた人だ」と、しゅ〜矢澤が授業で紹介したのが印象に残っている。ミルズの『パワー・エリート』だけははげしく批判したパーソンズだが、ミルズの批判を受け止めて、さらに論を展開しているようにも思われる。社会進化論、『政治と社会構造』、とりわけシンボリック・メディア論、そして日本で行われたパーソンズ・シンポでも行われた人間条件パラダイム等々。
 そうしたパーソンズに対して、ミルズは随分な批判をしているのもまた確かである。パーソンズの著作のわかりやすさ(intelligible)を問題にして、それを「普通の英語」に翻訳するという方法をとっている。ミルズはふざけたところもある人で、テキサス出身のアーバン・カウボーイを自負して、真っ黒なつなぎを着て巨大バイクでニューヨークの街をぶっとばして写真を撮らせたり、ホワイトカラーの表紙ではホワイトカラーを自ら演じたりしている。翻訳というやり方も、同じように調子に乗りすぎた結果かもしれない。
 さて、翻訳だが、まず長々と引用して、呆れて読むのをやめないでください、などとかますところからはじめる。555ページの『社会システム』1冊もこんなに短くできると言っている。随分ふざけた言い方だし、酷い話である。
 しかし、自分の本も一文で要約できると言って行っている。またパーソンズの本は検討に値するとも言っている。なぜなのか?大衆社会論争、中間階級論争、権力論争、さらにはもしかすると現代資本主義論争の核心部分につながっている論点にパーソンズが向かい合っていて、そこに一つの結論づけを行っていることを示すためではないか。そしてそれを批判して、論争の争点を際立たせるためではないか。
 読んでみると、いささかアレな部分もあるミルズの著作なのだが、そうした社会の根幹と関わる論争にコミットした議論であるがゆえに、今日もなおいろいろな検討が行われているのかもしれない、ということは、少なくとも仮定してみる価値はあるように思う。「なぜグールドナーではなくミルズなのか」というタイトルの論文があって、私なども、まぢかよ、と思ったりもしたのだが、最近は理解できる面もあると考えている。


 翻訳論については、ベンヤミンの翻訳論との関連なども気になるが、さすがに牽強付会かも知れない。この問題については、成城大学紀要の矢澤修次郎教授退任記念号に「公共社会学の現代的条件 : プラグマティズムと「公衆との対話」 」という論文を書いている。東北大学で行われたシンポジウムにおける矢澤先生の批判に応えたものだが、翻訳論の論点は、いまだに気になっている。
 純粋社会学などというといくらなんでも大仰であるが、ミルズの批判は、社会科学の原基的な問題を見すえ、現代社会論を根源的に問い直すためのものではなかったか。そして、翻訳はそのための方法ではなかったか。ミルズの翻訳は、痛快無比ということもあるかもしれないが、ひとつひとつを丁寧に整理しながら読んでゆき、現代社会の論争と照らしあわせてみるとじつに味わい深いようにも思われる。少し長くなるが、最後に引用しておく。論文へのリンクは引用末尾にある。

柄谷行人は、二葉亭四迷を中心に翻訳論を展開した折、ルターの聖書翻訳に触れ、ジャコビーが言った人々に届くということとは正反対の面に触れている(柄谷行人2005)。それは、ラテン語の聖書によって、近代ドイツ語が体系的に整備されたという側面である。柄谷は次のように言っている。


「ルターが『聖書』をドイツ語の俗語で翻訳したこと、そして、それが標準的なドイツ語になったことはよく知られている。フィヒテは、ドイツ語をギリシャ語のみが比肩しうる唯一の原言語であり、その他の不純な言語と異なると言った。彼はドイツ語が翻訳によって形成されていることを忘れて、そのオリジナリティを主張しているのだ。ドイツ語だけではない。近代なナショナルな言語はすべて翻訳を通して形成されているのである。しかし、大切なのは、何故ルターの翻訳がドイツ語を形成してしまうほどの強い影響力をもったのかということである。ベンヤミンは、ルターの『聖書』がもった影響力を、やはり、それが逐語的な翻訳であったことに見出している。」(柄谷2005、p.14-15)


わかりやすい、こなれた訳をする意訳は、意味に囚われた翻訳である。これに対して、逐語的翻訳とは、翻訳元において意味に囚われている「純粋言語」を、翻訳先のことばにおいて救済する作業である。そう柄谷は言う。(柄谷2005 p.13)ルターの翻訳は、テキストへの揺るぎない信仰に基づいたものであり、神聖なもの、純粋なものを救出する営為であった。翻訳とは神的な不変に向けた探求である。柄谷はベンヤミンの翻訳論を引用している。


「純粋言語とは、みずからもはや何も志向せず、何も表現することもなく、表現をもたない創造的な語として、あらゆる言語のもとに志向されるものなのだが、この純粋言語においてついに、あらゆる伝達、あらゆる意味、あらゆる志向は、それらがことごとく消滅すべく定められたひとつの層に到達する。そして、まさにこの層から、翻訳の自由はひとつの新たな高次の正当性をもつものであることが確認される。この自由は、あの伝達される意味――この意味から解放することがほかならぬ忠実さの使命なのだが――によって存続するのではない。翻訳の自由はむしろ、純粋言語のために、翻訳の言語を拠り所としてみずからの真実性を証明する。異質な言語の内部に呪縛されているあの純粋言語をみずからの言語のなかで救済すること、作品のなかに囚われているものを改作のなかで解放することが、翻訳者の使命にほかならない。この使命のために翻訳者は自身の言語の朽ちた柵を打ち破る。そのようにして、ルター、フォス、ヘルダーリンゲオルゲはドイツ語の限界を拡大したのだった。」(ベンヤミン1996、p.407-408)


 ここに描き出されている翻訳は、普遍的な純粋性、神聖性に向かうことであり、翻訳者はそれを実践する歴史的な主体である。公衆を、そうした翻訳者としてとらえ返すこともできるであろう。対話する相手が、社会的な弱者、マイノリティ、あるいは「向こう岸」(良知力)の人々である場合も同様であろう。そうした対話においては、当たり前を疑い、異化することは、純粋型を探求する双方向的な共同作業としてとらえられることになる。そしてこう考えることで、大衆文化におけるアウラに注目すること、わかりやすく語ることなどが、普遍的な歴史的主体の往還的、媒介的探求として明確にとらえ直される。
 ミルズが提起した動機の語彙論は、ことばの原基的構造を問うものだった。これを、ことばの純粋型などと読み替えれば、翻訳と言語の純粋型という論脈に接続することも可能となる。また、ミルズにおける公衆論の展開、世界戦争論などを、動機の語彙論に照らして、歴史の主体論として読み替えてゆくこともまた可能となる。こうした解釈を採るならば、アメリ社会学のなかで例外的にヨーロッパ的な視点に立った社会学者、晩年のマルクス主義への接近といった旧来の解釈を検討しなくてはならないかもしれない。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110009889140
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