社会学的想像力ノート2 grand theory

社会学的想像力 (ちくま学芸文庫)

社会学的想像力 (ちくま学芸文庫)

 パーソンズの『社会システム』についての章に、「グランド・セオリー」というタイトルがついている。これをどう訳すかはずいぶん悩んだ。旧約の鈴木広先生は、「誇大理論」という訳語を用いている。書物のなかには、パーソンズの理論を「裸の王様だ」に喩えたりしているところもある。1995年に新訂版が出たときも、初版の訳語にクレームがついたエピソードなども紹介しながら、訳語をかえなかった。理由は、ミルズの言いたかったニュアンスを最もよく伝える訳だからということだった。
 Milieu もそうだが、ミルズはいろいろなものの両面に注目した人だと思う。端的に言えば、オルタナティブの根拠づけという面と、その盲点、ミルズのことばを用いれば罠という側面である。社会学的想像力では、概念体系、計量調査、制御と予測、実用性、スペシフィックに考えること、合理性、自由などさまざまなものがとりあげられているが、その隘路を批判すると同時に、その可能性を開示させようとしている。となると、誇大理論という訳語で表されるのは、システム論の一面ではないかと思うのである。概念的な一般理論体系というものも、積極的に評価されるべき一面が他方であるということになる。
 いろいろ議論を重ねて、誇大理論という訳ではなく、グランド・セオリーとカタカナ書きすることにした。ミルズのニュアンスをこの方がよくあらわせると思ったからである。ミルズが批判したとされるシステム理論や計量的調査は、今日さまざまな社会問題の考察に用いられている。


 旧訳が訳された当時は、記号化、計量化するような「精密科学」、その根底にある確率論的なアプローチが、イデオロギー的に批判された時代で、ミルズの批判はそのような文脈で読まれ、評価されたことは間違いないように思う。私は環境問題の研究会にいて、他方でこうしたイデオロギー批判をゼミで学んだ。そのなかで、ゼミの先生にぶつけた疑問をきっかけに大学院の入院主題を決めた。このことは、中村との共著でも触れている。

 1961年秋に睡眠薬として用いられていたサリドマイドを妊婦が用いた場合の副作用に対して、ドイツ(当時西ドイツ)の小児科医レンツが警告をする。イギリス、スウェーデン、ドイツなどの諸国では、製造の中止と製品回収が即座に行われた。1962年5月に『朝日新聞』が、サリドマイドの薬害について報道を行い、事件は大きな注目を集めた。論壇などでも論争が展開されることになる。しかし、日本では行政的な対応も、企業の自主回収も行われなかった。結果として、軽度の場合は指の一部、重度の場合は四肢全部に欠損がみられる子供が誕生することになる。被害者は1000人弱と言われる。国と厚生省、取り扱い製薬会社の責任を追及する損害賠償訴訟が起きた(1974年製薬会社と原告が和解)。いわゆるサリドマイド事件である。
 裁判において有力な証拠として用いられたのが、いわゆる疫学的方法で、推測統計学を用いて、サリドマイドの使用と四肢欠損の発生の関わりを調べ、両者の間に統計的に意味のある関係があるかどうかを調べた。製薬会社は、推測統計学の方法をマルクス主義の立場から厳しく批判を行っていた哲学者に面談を申し込む。サリドマイドと四肢欠損との「因果関係」を統計的に推測することが学問的に問題があるということについて、学識経験者からの意見を求めるという製薬会社の意図に、哲学者は気づいた。そして、哲学者は、一つの論考を発表した(岩崎1973)。大企業が、「敵」であるはずのマルクス主義の哲学者の意見を求める。マルクス主義の哲学者が、批判対象であった推測統計学的方法――この場合は被害者の立場にたった立論をしている方法――の妥当性について論じる。こうした状況で哲学者の論じている内容は、科学の立場性、社会問題をめぐるクレイム申し立てといった問題とも関わる興味深い内容を含んでいる。
 そのなかでも一番興味深いのは、哲学者の議論において――確率論などの妥当性の吟味とならんで――「精密科学化」に大きなポイントがおかれていることである。統計や数学を精密化のために利用することはよいとしても、精密化が自己目的化し、あらゆる探求が「精密化のゲーム」に解消されてしまうことを批判している。精密化が一人歩きすると、扱う問題が矮小化されてしまったりする。哲学者は、そういった論点について再確認している。・・・(中略)・・・
 しかし、ミルズもサリドマイド問題における推計学的論証を批判したりはしないだろうと思われる。ミルズは、方法それ自体を否定しているわけではない。ミルズが批判しているのは、「方法の一人歩き」であり、探究が数量的な方法に解消されてしまうことである。探究を概念操作に解消するものとしてグランド・セオリーが批判されたのと同様に、数量的な方法へと探究する議論をミルズは批判した。そうした議論の背後に、アメリカ民主主義体制を「最終決着」とする論理をミルズは読解していた。システム論も社会調査も、「同じ盾の両面」として、最終決着の論理――端的に言えば社会の工学的制御――をになうものとミルズは考えていた。
伊奈正人・中村好孝『社会学的想像力のために』世界思想社 第3章冒頭)

社会学的想像力のために―歴史的特殊性の視点から

社会学的想像力のために―歴史的特殊性の視点から

 実はこのエピソードを入院試験前の夏合宿の報告で紹介し、問題提起を行った。先生は即座に、「私は民衆の立場に立たない証言は行わない」と繰り返された。この意味を考えるために社会学に転向すると入院の面接で私は宣言した。正直自分でもよくわからなかったのであるが。