藤本一司『老いから学ぶ哲学』

 ずいぶん前のことになるが、藤本一司さんから本をいただいた。昨年2冊目の本を出版されたことになる。お祝いとお礼を申し上げたい。鹿児島の古瀬徹先生は、激高老人ほどではないにしても、齢70のブロガーで、藤本さんの著作を繰り返し取り上げている。他にも学校の人々、地域の人々などとの交流を踏まえ、著作が書かれている。

老いから学ぶ哲学―身体の復権

老いから学ぶ哲学―身体の復権

目次:
序章 「私」とは「身体」である。
第1章 「身体」は、「他者からの贈与」である
第2章 「意識」は、「身体」から自立する(思い上がる)
第3章 「身体」は、「あなたのために」動きだす
第4章 「責任」は、「身体」からの声である
終章 「あなたのために」「私はここにいます」


紀伊国屋の著者紹介:
1958年生まれ。北海道教育大学札幌校卒業。札幌で中学教諭。退職後、北海道大学大学院文学研究科(哲学専攻)博士課程単位取得満期退学。現在、釧路工業高等専門学校准教授。専門はカント、レヴィナス(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

 表題からすると、ネオリベ批判などを下敷きにした自立と生存の立論系と思われがちだと思うが、自らの漂流体験、規範への渇望などを踏まえながら、じっくりとレヴィナスを読み込んで、自分なりのことばに咀嚼して、本が書かれている。多くの哲学読者たち、一言居士たちに、なんら臆することなく、というよりは、まったくそういうものは想定外のものとして自意識の外に置かれ、自分の読者たちに語っている。そういう読者、そして編集者と出会えたことの幸福が、淡々と語られている。
 80年代後半に藤本さんとやりとりしたことを思い出す。時代はバブルであり、思想はポスモダだった。ミルズをやっていた私は、道徳的語りに嫌気がさしていて、でも一応専門だからハイエクロールズの倫理思想、オルテガの大衆論などをつまみ食いしながら、気合いの入らないふぬけた論文を数あわせみたいにして執筆していた。そんなとき、藤本さんが、規範魔神のような語りをされているのを見て、流行の身体論だとかをを得意げに語った覚えがある。本書の意識と身体という図式を見ると、そんなやりとりを思い出したりもする。 の
 で、藤本さんは漂流者の思想にどう落とし前を付けていくか、というような課題を背負ったんだと思うが、カントのパラメーターとして持ってきたのがレヴィナスであるというのは、そして、責任ということばを最後に持ってきているのは、なんというか、この頑固者が!という感じであった。というか、ここには、哲学者としての豊穣な可能性が胚胎されているように思った。去年の秋に、ニューヨーク知識人についての報告をしたことなどを思い出しつつ、知が複製の知として瓦解していく時代の人間存在について考えてみようかと思う。意識、身体、責任という鍵語をしゅんと出してみせるのは、もちろん重要な意味を持つとは思うのだけれども、数々の文言を気に喰わぬ読者のために変換することもまた重要な仕事になってくるような気もする。まあ、そんな暇があったら、今のやり方で書くべき課題はいくつか残っているよね。しかし、原稿はあっても出してもらえない私としては、次々に出せるのは羨ましいではある。