藤本一司『介護の倫理』

 藤本一司さんが三冊目の著書『介護の倫理――贈与・身体・時間』を送って下さった。おりしも、ブラウの交換理論と、金子郁容のネットワーク組織論を対比しながら、ナミビアでボランティア活動をする青年の調査をした卒論が出されたあとで、「車椅子を押させてやっている」という『ボランティア』(岩波新書)の有名な一節などを思い浮かべながら、めくったところだ。
 一冊もリファランスはついていないが、自らの介護体験と、カント、レヴィナスフロイトの読書体験を比較しながら、反芻した思索を紡いだものである。思想論壇に注目する人たちではなく、学生さんや現場の人たち、あるいは同じような境遇の人たちに語りかける本となっている。副題のなかで、副題の3つの文言のうち、贈与、身体は、どちらかと言えば既存の仕事の理解を自分なりに咀嚼したものだと思うが、それに時間という文言を付け加えたところが、この本の特徴なのだろうと思う。哲学史を踏まえたまったく違う書き方もできたのだろうと思うが、それをしなかったのが、著者のこだわりなのだろう。「ベルグソンからの影響は?」というような質問は控えるべきなのだろう。

内容

介護して「あげる」という「贈与」は、「身体」に基づく「生きる力」と「よろこび」を授けてくれる。だから、介護は愉しい! 介護を「人間の条件」として掘り下げる。

目次

序章 「有ることのかけがえなさ」を感受する
第1章 介護して「あげて」、育てて「もらっていた」を知る
 「もらってばかり」だと、うぬぼれる(自分の位置を見失う)
 「あげて」みると「もらっていた」が蘇る
 「支えてくれていた人たち」に気づく
 「もらっていた」の感受は、「生きる力」をつくる
第2章 介護して「あげる」という「私の位置」とは?
 介護して「あげる」とは、「私の独善性」が問われ続けること
 介護して「あげる」とは、「私の責任」を譲らないこと
 わかって「もらう」のではなく、わかって「あげる」
 「事実」ではなく、お年寄りの「思い」に降り立つ
 「攻撃性」への対処ではなく、不安にさせないこと
第3章 介護して「あげる」と、よろこびが到来する
 わかって「あげる」とは、「私を動かす」こと
 「私を動かす」と「善い循環」(関係性)が立ち上がる
 「未知の世界」に踏み出すと、「無限」に向上する
 「私の物差し」を「撤回する」たびに、「未知の世界」が訪れる
第4章 介護して「あげる」とは、「身体に聴く」こと
 介護して「あげる」とは、「脳」に勝たせないこと
 「身体」は「自律」している
 「身体」こそが「脳」を支える
 「身体」の「未知性」に寄り添う
第5章 「身体」は、「あげる」「もらう」の交換を欲している
 「笑顔」は、「あげる」「もらう」の往復運動から成立している
 「身体」が欲する「交換」は、「内容」に目を奪われてはならない
 身体は、動物的な身の安全を求めているのではない
 「あげ方」「もらい方」に照準を合わせる
第6章 「他者の身体の死」は、「時間」を生成させる
 介護してあげるとは、「他者の身体の死」に押し返されること
 「他者の身体の死」は「脳の不死性」を暴露する
 「他者の身体の死」は「当たり前」を崩壊させる
 「時間」とは、「いまここで不在の他者」の覚醒のこと
終章 「身体」は、「時間」の伝搬者である

 まず手に取ったときには、社会学者からすれば、立岩真也、天田城介といったお名前、『生の技法』といった著作名がすぐに思い浮かんだ。めくってみて、まず思い浮かんだのは、宮台真司の『14歳からの社会学』、とりわけ「母のデパーチャー」のところである。
 誤解を恐れずに言えば、介護というのは、容易に正義が手に入りやすい領域である。そして、ムーディーに情緒的な議論をして、すませることもできるのだと思う。しかし、著者は、徹底的に規範的な思考にこだわってきた人である。「笑顔」ひとつ論じるにも妥協はない。そして、「 」を多用する文体も、それなりに成功しているように思われた。
 著者は、ある意味で、今日の若者たちの魁的な軌跡をたどった人である。「外こもり」「純度100%の規範」「父親的な規範」「生きづらさ」「苦しみ」。話を聞いてくれ、受容してくれ、そしてねぎらってくれるものを渇望する。ただし、まったく正反対の面もあるようにも思う。だからこそ、若い人たちが読んでみたら、面白いのではないかと思われた。
 最後にお礼を申し上げます。勉強させていただき、ありがとうございました。