佐伯一麦『ショート・サーキット』

 筆の進まない現実逃避に散歩をしたり、書店をまわったりというのは、脳に刺激を与えるのに必要不可欠な作業だ。修士論文執筆のころからかわらない習慣である。ただし、あのころは書き終わったら読もうと思い、メモをとりながら書店めぐりをしていた。今は、即刻買い、意地汚く読んでしまう。嫌気がするようなだらしのなさへの戒めなどと理屈をつけて、また「よけいな本」を一冊買ってしまった。佐伯一麦の初期作品集である。一見「気恥ずかしくなる」ほどの生真面目さで書かれた作品群は、救済を求めてそこにすがっているような類とはまったく異なるわけで、愚にもつかない自己実現のための皮肉などははね返されてしまう。

ショート・サーキット (講談社文芸文庫)

ショート・サーキット (講談社文芸文庫)

 『ア・ルースボーイ』における新聞配達のシーンは、何度読んでも清冽である。進学校からドロップアウトした主人公は、街に暮らす人々一人一人の姿を思い浮かべながら、工夫を凝らして新聞を配達する。その描写には居丈高なところはない。冷徹な眼を、ソリッドな文章が具現している。屋根裏で働く電気工になった主人公は、飛び出た高校の屋根裏から卒業式をあたたかなまなざしで眺める。性的虐待の傷を負っていた主人公は、ラストで親しい女性と交わりしゃにむに尻をふる。そのしゃにむさは解き放たれたへなちょこな躍動ではあるが、そこにも不安な「危うさ」が漂っている。生真面目に問いつめることは、皮肉にカッコつける貧しいうわすべりな美学をそっと包む。この作家が、島田雅彦、山田詠実、古井由吉といった人々と交流があり、尊重されているというのは、どうでもいいことなのかも知れないが、勇気を持つことができる。
 初期作品に描かれているのは、電気工の主人公である。尻をふったあげくに若い父となった主人公は配電工になり、都市生活者の現実に直面する。家族と仕事。「都市生活者の暗部に直面する電気工のかれ自らもまた危うさをはらんでいる」と帯に書いてある。絶版になった本の寄せ集めと言えないこともないわけだけど、この帯と、詳しい年譜、それから「著者から読者へ」という一文があるので購入することにした。この人も図書館で本を読みふけった人なんだなぁなどと思った。しかし、「著者から読者へ」でヴェイユの名前をみつけたとき、虚をつかれたような気持ちになった。衒いなくさらっと言ってしまっている。そうだったのか・・・。

 風邪気味なのか、朝早く起きられず、多くの夢をみた。ほとんど、電気工の頃の夢。目覚めたとき、「ショート・サーキット」執筆の腹づもりが完全に固まっていた。労働の悲惨さというものは確かにあるが、その内側では、そのこと自体をも肯定している精神状態が確と存在しているということ。労働する人間に不幸をもたらす原因を取り除くのは、労働に美しさを取り返させること。元来病弱だったヴェイユが、命懸けでつかんだ労働の観察の結果と認識を、自分もまた手放すことなく作品で描こう。夜、O氏から電話がありタイトル名を正式に伝える。

 「上野の終夜営業の居酒屋で祝杯をあげ」という一文にちょっと救われた気持ちになり、眼を「解説」に移すと、福田和也の文章に思わず「まぢやべーぢゃん」とかゆっちゃった。馬路まぢやべー一文で、歌いすぎじゃね?というような皮肉も萎縮する。ベタに心酔するような類は、宮台真司さんにボコってもらわないといかんかもしれないわけだが。w 福田は、小林信彦を引きながら、なんの変哲もない団欒のなかには、戦争や革命に劣らない、ッテイウカそれらよりも鮮やかなドラマがあるのだと言う。「ごくあたりまえの生活を維持していくことのすさまじさ」を続けて行くこと。「人生が約束していたはずの様々な輝き」からすれば理不尽なことを受け入れ、納得すること。まあこれは保守主義やモラリズムの常套であることはあるんだろうけれども、佐伯はそこでヴェイユしちゃっているわけだわなぁ。
 福田は、私小説の系譜においては、歴然とした衒いやポーズがあったという。車谷長吉は、その衒いやポーズへの方法意識があり、ポーズを戯画にまで高めた(=こけおどし)。しかし、そうした傾きは佐伯一麦にはない。そう福田は言う。

 ポーズを取ったり、格好をつけたりするには、佐伯一麦は誇り高すぎるのだ。その誇り高さが、何に由来するのかは分からないけれど、やはりある種の倫理なのであると思う。美学と云うと肝心の手触りが滑ってしまいそうで怖いのだが、けっして跳ばない、蹴手繰りをしない、肩からも当たらない相撲取りの、漫然としたものではあり得ない覚悟、つまりは勝機を逃すかもしれず、相手の奇策に陥るかもしれず、逃げずにぶちあたり続ける事からくる痛みの蓄積と疲弊にも耐える、そのすべてを引きうける、引きうけるべきだ、引きうけざるを得ないと納得してしまう人が、そのように考えてしまうまでに遭遇してきたことの総てが、振る舞いの規範として昇華したのだろうと想ってみる。

 福田は、「生きていく人間のあたり前の姿」を過不足なく描くこととして、佐伯一麦の作品を括っている。最後に、福田は「私小説しか読まない」というつげ義春の一文を紹介し、衒いなく愛読者ぶりを告白している。そして、アップツゥーデイトな話題に絡めながら、「解説」を結んでいる。

 佐伯の文章の一言一言に、私が、文学にたいして切実に求める、結晶体のようなものがある。
 アスベスト禍の報道に接するたびに、佐伯一麦のことを考える。今日も、佐伯は咳き込んでいるのだろうか、苦しんでいるのか、と。その想起は、時に祈りに似ている。何に対する黙祷なのかは知らないけれど。