マルクス主義のマルクス主義

 本日はしゅ〜矢澤のさいしゅ〜講義であったわけだが、行くかどうか迷った。一般の授業と別時間に設けられた最終講義ではなく、後期開講講義社会学史2の最後の講義が最終講義ということになっているからだ。ニセ学生というマージナルな者として、若干の逡巡があることは、妥当なことだと思う。しかし、ミルズについてなにか話されないかと思ったし、また伝記や「自分語り」にこだわってきた社会学者として、先生の学問的総括というようなものを聴けるのではないかという期待もあった。すべては天にというわけではないが、目覚ましをかけずに寝た。起きたら行くということである。四時就寝であったが、律儀にも八時過ぎには目が覚めていた。
 教室にはぎりぎりについた。そうしたら、もう満員だった。前のほうにすわるのはいやなので、一番うしろにいくつかならべてあった椅子をひとつ借りてすわる。それもなくなり、教室のなかは立ち見もたくさんいた。のみならず、廊下で聴いている人もいたらしい。遠方から来られた人もいるようだ。後ろのほうで、とても学生とは思えない年輩の人たちが、どこから来たなどと話し合っていた。「いつもの授業と同じに」と一言だけ説明があって、講義は定刻にはじまった。社会学2というのは、20世紀以降の社会学史を概説する講義で、機能主義、実証主義現象学エスノメソドロジー、批判理論、構造主義フーコーデリダルーマン、ギデンズと一通り説明するもののようだ。全体は総まくり的であるけれども、枠組みは明解で、全体を俯瞰しやすい講義であるという印象を持った。原典のポイントをプリント化したものなどを教材に、講義をされているらしい。講義については、「アランやヴェイユがリセで行ったような講義をしてみたかった」と言われていた。原典云々もヴェイユにならったものであるという。いたずらなノウハウ化への警鐘ともなっている。ひとつのヒントをいただいたような気がした。
 ミルズについては言及はなかったが、批判理論、ラディカル社会学についての言及はあった。<68年>をアメリカにおいて支えたのは社会学だった。ラディカル社会学の理論は、理論としては陳腐であるという指摘は甘受するしかない面もあるが、その社会学は社会運動や歴史形成によって支えられた社会学だった。社会学をみるこのような視点は、歴史的知としての社会学を、その哲学的背景などをも含めて、ベグライフェンすることである。そうした具体的全体性は、ハーバーマスともルーマンとも峻別されるラディカル社会学の特徴と言えるのではないか。グールドナーは、最初期のプラトン研究において、それを知の歴史として概括するようなパースペクティブに到達していた。しかし、カミングクライシスが売れちゃったので、道を誤った。晩年、弁証法のダークサイドプロジェクトにおいて、ようやく初発の問題に回帰したが、未完成のまま亡くなった。私なりに要約するとこんなことをおっしゃっていたように思う。
 グールドナーが到達した地平として、「マルクス主義マルクス主義」をあげていたのは、興味深かった。宮台真司氏は、どんな革命も不幸な人々をつくりだすという実感をもつことが「新左翼」という感覚であるというような内容のことを言った(『限界の思考』)。有園真代氏は、あらゆる社会運動はマイナリティをつくりだすと言った。<68年>に端を発する「新しい左翼」というものの重要性を再確認する必要があると思うし、そうした観点からミルズを読み直すべきだと思っていたので、グールドナーについての矢澤修次郎先生ご指摘は大変興味深かった。
 最終講義のあとは佐野書院というところで、昼食パーティがあった。軽食のみだったが、非常にさわやかなパーティだったと思う。講義の模様、パーティーの模様、あとお人形の写真をアップする。