古井由吉『聖なるものを訪ねて』(集英社)

 おおよそ試験の採点も終わり、少しのびのびした気持で吉祥寺のロンロンを歩いていたら、書店でとても美しい装丁の本が平積みになっているのをみつけた。白と黄土色のツートンカラーとかゆうとあまりに暴虐だけど、当たらずとも遠からず、淡くふっくらした色合いは、かなり遠くからみても多くの人が「お!萌え」と歩み寄る類のものではないかと思う。近寄ってみると、古井由吉のエッセイ集で、旅と漂泊と恋などを語ったえっせいが集められているもので、表題作は宗教画をめぐる連作、画集もついた美しい本である。「旅はまだ続いている。果ても見えない」。「人生の実相は、人の息を引き取ったあとの静けさの中にある」。こんな帯のことばをみて、『仮往生伝試文』の増刷などが脳裏に浮かんだりもしたが、私のようなものが的はずれにあーだこーだ言うようなことでもないであろう。古井由吉の文学がわかるなどという気はさらさらないし、私にとって古井由吉は、国語の教科書でみたという以外は、佐伯一麦とコラボレーションをした人であり、佐伯一麦が福武文庫版『招魂としての表現』の解説を書いている人という印象がまず第一にある。しかし、その文庫本のなかにもある私小説論は、「自分語り」にこだわってきたものとして、あるいは井上俊氏の言う「私社会学」に惹かれる者として、実に萌えなものである。ミード読みの1人としても、うーんとうなってしまうところがある。文章を一つ、ものすごい省略の仕方で引用しておく。w

 こちらとの関係距離が絶えず変化変質する生きた人間、そんなあやふやな対象には、文体という手続きはどうして設けられる、という絶望はそれ自体あきらかに、私小説なるものを求める線上にある。・・・私小説なる、あまりに個的な、あまりに個にゆだねられたものは、文体ではあり得ない。作家の個性なり個癖なり心性の偏りを文体と呼ぶ習わしは、正統な概念からの逸脱である、・・・。
 ところが、一方で個と全体と、現代と伝統との相互の通路、としての文体を目に据え、他方では大方の虚構作り事を通俗として、精神にたいするあらわな侮辱として振り落としていくとき、前方にわずかな可能性としてのぞいてくるエッセイズムとも言うべき行き方は、その清澄さ、その禁欲において、もっともすぐれた私小説と、精神がはなはだ似通ってくるのではないか。

 でまあ、新しいエッセイ集を手に取り、装丁と絵だけで買うのはちょっとなぁと思ってめくっていると、なんかこれって静謐な実相に迫る文章がならんでるじゃん、(・∀・)イイ!!じゃん、ヤベージャンみたいな気になってきて、とりわけ「鬼気の笑い」というエッセイが、脳天に突き刺さった。自分ウケありありの今日と違い、コメディアンが自分笑いするなんでありえねーってじだいに、つい自分ウケしてしまったコメディアンが思わず笑ってしまった話からはじまって、阪神淡路大震災で家の下敷きになり助け出されぬまま延焼がひろがり、火が近づいてきて、もうダメポってときにその人は笑うんじゃないかとかのイメージが、50年前の体験を呼び覚ます。空襲で大けがをし、もうダメポな状態の女性。「しっかりしろ」とかはげまされながら、青白い顔で女性は笑っていたっつーんだね。最後の二行は馬路すごいと思った。

 ゆらめきあがる炎を茫然と見あげる者たちの心の内に、その長閑なようなゆらめきに応えて同様にゆらめきあがった情念の内に、笑いの影が落ちていなかったとは、誰にも言えまい。

 それでもまだ、あとで図書館とかで借りてみればいいのかなぁなどと思い、立ち読みですませようかと本を置きかけたときに、一ページばかりの「私小説」という文章があることに気づいた。その中の一段落を読み、買っておかなくっちゃと決断した。「心理学化する社会」への洞察がそこにはあったからだ。

 今の世の中では、人は「私」の中へ追いこまれがちなので私小説が栄えそうなものの、じつはその逆で、私小説を成り立たせている何かの基盤が欠けているので、かえって困難だとみている。風景とか、人の風体とかいうものを漠と思っているのだ。わずか一行、わずか数語で掠め取るべき情景の表現に、あんがい多くの言葉を費やさなくては済まない。あのような得心感は今の世では無理である。求めてはならないとまで考えている。その私が行きづまると、またぞろ棚からおろして読むのが古い私小説だから、やはり不思議である。

 いま今日において、たとえば「スタイル」「かまえ(attitude)」を考察する意味ってあるのかなー☆。などと殊勝なことを考えたりもしますた。そんなこんなで、夜更かしをし、その上でゆっくり寝て、出勤。今日は午後から。いよいよ入試までカウントダウン。雪が降るという噂もあるが、晴れて欲しいものだ。