講義ノート屋考

 京都大学の寮に監視カメラがついたという。時代は変わったということだろう。で、講義ノート屋が氷河期みたいなニュースが2ちゃんにあり、よく見たら朝日新聞の記事だった。

 きちんと大学の講義に出た人のノートを1、2万円で買い取り、その写しを1部数百円で売る。こんな学生相手の「講義ノート屋」に逆風が吹いている。学生の「まじめ化」やノートの質の低下が原因だ。大学の視線も厳しくなり、一部の繁盛店をのぞき、次々と倒れている。


 約1万8千人が通う立命館大衣笠キャンパス京都市北区)。東門から約30メートルの建物の1階に人気の講義ノート屋がある。学生がカウンターで講義名を告げると、店員が奥に取りにいく。夏の前期試験直前には、約40人が入店待ちの列をつくった。


 試験シーズン恒例の風景だが、今年はちょっとした「事件」が起きた。黙認してきた大学が試験に合わせ、利用自粛を求める教学部長名のメールを全学生に出したのだ。


 「大学での学びは誰のためにあるのでしょうか。授業に出席することなく、『講義ノート』に頼ろうとする試験対策は安易であり、本末転倒です」


 だが――。自粛令が出たあとの昼休み、店頭に「ノート販売30周年&店舗改装を記念して、300科目すべてが通常価格1冊700円のところ300円!」というチラシが置かれていた。それ目当てか、相変わらず学生が店に吸い込まれていく。


 4回生の男子は「大学が禁じたいのはわかるけど、単位を落としたら元も子もない」。3回生の女子は「出席していてもわからない講義があって」と話した。


 一方のノート屋は、「取材はいっさいお断り」だ。


 近年、こんな繁盛店は珍しく、閉店が相次ぐ。


 関西では数十年前から存在し、印刷会社などが営んでいた。「関関同立」「産近甲龍」と言われる有力私大の周辺にはどこにもあったのに、近畿大大阪府東大阪市)は5年ほど前、それより前に関西大(同吹田市)、甲南大(神戸市東灘区)で姿を消した。関西学院大兵庫県西宮市)でも2年ほど前になくなった。いまも残っているのは、立命館大同志社大京都市上京区)、京都産業大(同北区)、龍谷大(同伏見区)などだけだ。


 冬の時代を迎えた理由について、大学関係者は「就職氷河期」を迎えた10年余り前から、学生の講義への出席率があがったことを挙げる。就職のために、単に単位をとるだけでなく「優」の数を増やそうとする学生が目立つようになったうえ、出席をとる講義も増え、写しを買う必要が薄らいだのだ。


 ノートの質の低下を挙げる人もいる。かつてノート屋に店の一角を貸していた関西大前の文具店経営者は「以前は口頭で説明した内容や試験に出そうなポイントも書き込まれていたが、板書を写しただけのものが増えていた。お金を出すには物足りない内容だった」と話す。(市原研吾)
http://www.asahi.com/national/update/1003/OSK200810030055.html

今の大学は、ノートの貸し借りだとかはあまりないし、授業情報自体も多くの学生は関心をもっていない。テキスト代もけちる連中が、数百円の粗悪なノートを買うとも思えない。
 まあともかく、私は売買が行われている云々にはたいして関心はない。むしろノートの粗悪化が気になると言えば気になる。板書だけというのは、酷すぎないか?口で説明したことが書いてあればいいというモンではないだろう。
 見極めなければ、上手に受講できないことはたくさんある。先生がどういう種類の板書をしているか?たくさん板書して、書かせようとする先生もいる。話を気持ちよくして、補助的に板書をする人もいる。読みにくい漢字や外国語のスペルだけを書く人もいる。
 ハンドアウトはどういうつもりでくばっているのか?話の筋道しか書いていない人もいる。丁寧な資料集になっている人もいる。文章化している人もいる。穴埋めになっていたりするものもある。統計まで丁寧につけている人もいる。しかし、プリントの絵面や枚数に陶酔しているだけのこともある。
 口頭の説明はどういうつもりでしているのか?その先生はどんな美学やマキシムに基づいて講義をしているのか?マシンガントークにも、訥弁にも、それなりの理由はある。なにが自慢で、なんで無駄話をするのか?どの程度整然と講義ができるのか?どの程度思考が乱れるのか?換言すれば頭が悪いのか?そんなことを見極めるのが、受講の品格というもんじゃないのか?それは、頭の悪い教師の暴言だというかも知れない。たしかにそういうこともあると思う。ごめんなさい。w
 日頃、ずっと講義に出て、なにもノートをとらずに聴いてみろ、などと言っている。でもって、試験の時は筆記マシンのような人の物を借りてもいいじゃないか、などと勢いで言ってしまうこともある。2人組で聴いて、聞き役と書き役を交替交代でやるのもひとつの方法だ、とも言ったかな。
 女子大につとめはじめた年に、社会学概論の講義をもった。そのクラスにスーパーノートというあだ名の人がいるという噂があった。素晴らしいノートだという。でも噂しか伝わってこなかった。何年か後に、他ゼミから大学院に入学して私のゼミになった人がいて、実はそいつが「スーパーノート」だった。さっそくみせてくれというと、実に輪郭のくっきりとした筆致になっている。字は大きく丁寧で、余白のとり方にも気品がある。よけいなことは書いておらず、頭の中で整理し直したポイントが、整然と書き付けられていた。通読すると、毎回毎回、そして通年の授業のポイントがくっきり見えた。私の講義は、今どころの騒ぎではなく余談は多く、話題のトラックが五つぐらいあって、往復するという酷さだったと思う。そして、ギャグや余談の切れ味は、今みたいにぬるいものではなく、講義のポイントの印象をかき消すのに十分なインパクトを与えていた。しかし、スーパーノートは、へたくそな講義を、実に上手に再構成していた。
 その後も何人かそういう学生たちと出会ってきた。ノート提出をさせると、数冊すぐれたものがかならずあった。だから、「離乳食キボンヌ」みたいな感想が書いてあっても、あまりへこたれない。問題は、全員にスーパーノートな聴き方をどうしたらさせられるかということだと思っているから。
 教師になりたての頃は、まずノートをとらないで講義を聴かせ、ノートタイムにノートをとり、その時に質問させる方式をとったことがある。これはかなり有効な方法だと思うのだが、聴きながらとるやつがかならずいるので、やめてしまった。20分くらいコメントペーパーを書かせる時間をとったこともあるが、半分くらい白紙で名前だけというのでやめてしまった。