クロニックラブで散歩し存在論的メディア論を買う

 本務校の授業は火曜日からだが青葉学園短大の授業は今日からである。人間関係論という講義で、ボディーランゲージなどについて語ってきたが、現代の人間関係についてまとめのつもりでやった。私語は多いが、黒板のあれやこれやにけっこう反応していることがわかる。「字が汚くて読めない」。「記号表記の意味はなにか」。「板書はプリントのどこに書いたらいいか」。そういった声が聞こえてくる。板書をすると、かなり一生懸命筆記しているのがわかる。重要なことを口頭で説明してもこれはメモしない。試しに空欄(プリントは穴埋めにしている)を多くしたりしたら、かなり私語が減る。まあただこれだとすこぶる講義がやりにくい。板書により強引に聞かせるテクニックは多くの人が実践しているだろう。前任校の同僚が、「今日はチョーク十本もつかっちゃったよ。わはははは」とか、快活に語っていたのも記憶に新しい。ただまあ正直勉強−−と言うか学問と言うべきか−−が、別のゲームに変換−−と言うか矮小化と言うべきか−−されているのがすごく気になった。
 これは他校でもうすうす感じていたことだが、かなり明確に認識したのははじめてだ。出席なども、かなり矮小化されたゲームになっている。社会学史の授業で「顔を見ながら出席をとるか」と言ったら、最前列の学生が「とって下さい」と気色ばんだ。なんかずれていると思う。今日も、授業終わって講師室で休んでいたら、学生が2人きた。真面目そうな学生で、「おお質問かね」とうれしくなったが、「公欠届け何回出しましたっけ?」ととぼけている。たぶん出席が足りないのを自覚していて、受験資格などを心配しているのかなぁと思ったが、まあ聞くのもなんだから、「まだ出欠は整理していない」とだけ答えた。「そんなこと気にするくらいなら私語をどうにかしろ」とノドまで出かかったが、まあ皮肉は一番「言ってはいけないこと」だと後輩が教えてくれたのでやめた。怒ってもいいが、皮肉を言ったりすると、学生は馬路きれるらしい。帰路、あと一年で四年制大学になる青葉学園短大を携帯のカメラにおさめた。
 久しぶりに授業したので疲れた。精神疲れなので、歩くことにした。今日は天気もいいし、家を出る前にBGMにえりの「シャリオン」他、中谷美紀の「クロニックラブ」など静かな曲を持参している。後者は「ケイゾク」のドラマの入りを思い出して、なかなかになつかしい。世田谷城趾から、宮の坂方面へといつものコース。しかし、今日は時間もあるし、豪徳寺をのぞいて行くことにした。井伊直弼の墓があるということで、けっこう多くの人がいた。しかし、京都のお寺みたいな観光用の整備はあまりされておらず、むしろ生活の一部といったかんじの佇まいがする。そこをとおって、山下駅方面へと抜けた。
 吉祥寺駅について、例によってというか最近の習慣である高野フルーツパーラーでとちおとめの生ジュースを飲んだ。ビタミン摂取ということもあるが、まあ美味しいこともある。本屋で、しばし和田伸一郎『存在論的メディア論』(新曜社)を立ち読みした。ヴァルネラブル、現前、残像などのことばが目に刺さったが、とりあえずはスルーした。が、やっぱ元旦の計を守るために夕方買ったのだが。意外なくらい読みやすい筆致である。東ーデリダ、和田ーハイデガーヴィリリオなどと対比されて論評されるだろうし、帯の「ケータイを持ったハイデガー」「ハイデガーの<現存在>をめぐる難解な思考を現実の体験にしたメディアの進歩」などのことばはなかなかキャッチィで中央紙などでも採りあげられる(た?)かもしれない。あとがきも懇切丁寧だ。「得体の知れないもの」というライトモチーフの提示はとてもありがたかった。ハイデガーにも言及している宮台真司氏がどういうかちょっと興味がある。
 この本はもちろんまだ全部読んでいない。その上で言うことであるが、このような咀嚼は、なんだかんだ言われるかもしれないなぁとは思う。しかし、難解なテキストを読み砕いて行く、著者のことばがしっかりしていて、なかなか強烈な魅力を発散している。ハイデガーのコンテクストというよりは、著者のコンテクストがぼんやりと浮かび上がり、それがワクワクするもののように感じられた。
 午後は学校で仕事をして、出かけるつもりが、本を買ったあと、ビデオ屋に行ったら、なんと24がごそっと返却されていたので、借りてきてみている。メシはやっぱり富士ランチ。電車で行かず、歩こうかとか、チャリで行こうかと思ったけど、まあ無理をするのはやめておいた。