がぶり寄り荒勢逝く

 号泣きもちえぇは、威風堂々撮しまくりだったものの、ミズノ社員の某バッタ選手に関しては、顔しか写さず、かつ帽子もアングル固定で、なんかエド・サリバンショーに出たときのプレスリーのようにまずい箇所はうつしませんでしたというか、なんか視聴者装った抗議が国営放送に届いたのでわ?などとツッコミどころ満載の、ハイテク水泳競技でございます。まあしかし、全体的にレベルがあがっていて、フェルプスの200フリーとか、昨日の400リレーとか、あり得ない世界記録でぶっ飛びます。特に400リレーの最終泳者のラスト50メートルの「狂った風車」こと大場政男さんもぶっ飛ぶような爆裂かきまくりは、東京五輪10000メートルミルズ選手の負けるもんかこの野郎ラストスパートを思い出し、思わずわぉ!とかゆっちゃいました。フェルプスのガッツポーズは、あまりのすごさにふきました。
 そういった炸裂感ということから言えば、プレスリーもぶっ飛ぶ三味線のばちみたいなもみあげの荒勢さんの腰の入ったがぶり寄りもすごいものがあったわけですが、その荒瀬さんが亡くなったようです。私ははじめてその勇姿をみたときに、これだ!と思ったことがあり、栃赤城とか、トリッキーな相撲取りが好みのアテクシとしては、かなりストロングスタイルの相撲取りもいいんじゃないかと思った最初の経験でありまして、以降大応援してきたのであります。ご冥福をお祈りしたいと思います。

元関脇の荒勢さん死去、タレントでも活躍

8月12日8時2分配信 サンケイスポーツ


 大相撲元関脇のタレント、荒勢さん(本名・荒瀬英生)が11日午前5時54分、高知市内の病院で死去した。59歳だった。


 関係者によると、荒勢さんは今年4月に脳内出血で倒れ、東京・広尾病院で緊急手術を受けていた。5月下旬に実家のある高知市内の総合病院に移り、リハビリに専念していたが、不整脈などの病気も併発していたため、10日夜に容体が急変。母、孝子さんら家族に看取られ、静かに息を引き取ったという。


 荒勢さんは高知高、日大相撲部で活躍後、大学の先輩、元横綱の輪島さんを追って花籠部屋に入門。1972年初場所初土俵を踏み、翌73年に新入幕を果たした。相手と胸を合わせてあおるように前に出る「がぶり寄り」を得意技とし、個性的なもみ上げといかつい風貌、ケレン味のない取り口で人気に。お酒が飲めないにもかかわらず洋酒メーカーのCMに出演したり、演歌「何もいうなよ」で歌手デビューするなど、現役時代からタレント活動していた。


 81年に引退し、年寄「間垣」を襲名して親方になったが、「部屋付きで、のんびり生きていく生き方は自分に合わない」と83年2月に廃業。同年、五社英雄監督の映画「陽暉楼」で俳優デビュー。以来、NHK大河「春の波濤」や映画「北の蛍」などに出演した。


 私生活では、99年に11歳年下の元女優と結婚し、50歳で独身生活に別れを告げたが、関係者によると「4、5年前に離婚した」という。01年に自由連合から参院選に出馬も、落選。06年に脳梗塞で倒れて故郷・高知で療養生活を送り、1度は回復して東京で生活していたが、今年4月再び倒れ、故郷で帰らぬ人となった。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080812-00000030-sanspo-spo

 まあともかく、nasty、skanky、kinkyとY系のことばをいくらならべても表現しきれない味わい深さで、荒勢関がガブリにはいると、おっしゃぁ!よいしょよいしょと、かけ声をかけて応援したという次第であります。これは茶化しているのではなく、がちな形容であり、あの腰の入り具合と、グラインドの力強さ、そして限界がぶりにおけるくいくいくいという小刻みなとどめなど、目に焼き付いております。あれにくらべれば、HGだとかは児戯というしかなく、また、たとえば『ア・ルースボーイ』の最後の有名なヒューマンな腰描写なども、かすんでしまうんじゃないかなどとも思っております。
 あと思い出すのは、選挙でしょうね。日本の道徳的頽廃は任侠道の衰退にある。それを支えてきた親分衆による道徳の立て直しが必要で、それを阻害する悪法まるぼう法の再改正をなどと、公約、演説したことなどは、政見放送ファンとしては、見逃せないものがございました。
 ガブリにしても、生き方にしても、大まじめで、しかし哀しさがただよってしまうみたいなところは、みんながみんな北島気持ちエエをめざして、すぐにダメだとわかると、しおしおのぱーになって、爆(´・ω・`)ショボーンブルー、でも、ほめて、いやして、みたいな時代において、重要なモチーフを提起しているように思えてならないのであります。