ドリー・ファンク・ジュニア引退

 ぢぢいの昔話は長いものである。昔を語ることは甘美である。いくらでも語れるのである。恥ずかしい話だが、この垂涎の話題をのがすわけにはゆかないのである。
 みくしをみていたら、「ドリー引退」とか書いてあるから、遺伝子操作の動物が引退とか、そういう話かと思った。らさ、みてみたら、ドリー・ファンク・ジュニアだったからぶっとびである。まだやってたんだな。まあしかし、まえにもゆったわけだが、つーか具体的には永源遙について書いたときだったかと思うけど、スタニラウス・チガエッツ・ズビスコは70超えてまでやったわけだし、女子プロレスはファービラス・ムーラに至っては、90でやるだとか、100だとかゆわれているわけで、不思議ではないだろう。
 何度も来日して、ジャイアント馬場などと名勝負をやった。馬場との対戦は、スピニングトーホールドとフライングネックブリーカードロップで一本ずつとって引き分け、猪木とはたしか大晦日にやって双方一本も取れずに時間切れ引き分けだったんじゃないかな。猪木がテレ朝で一枚看板の番組持ったころで、馬場との二枚看板時代を印象づける試合だったように思う。

「全日本」(1日・両国国技館

 “グレート・テキサン”ドリー・ファンク・ジュニア(67)が44年半の現役生活に終止符を打った。相棒の西村、対戦相手の渕、天龍はいずれもまな弟子。最後は“伝家の宝刀”スピニングトーホールド6回転で渕を沈めて3カウント。マイクを握ると日本のファンに「ユー・アー・ワンダフル」と感謝した。今後はコーチとして米国で後進の指導に専念するが「現役は退いてもプロレスから離れるわけではない。新たな出発」と笑顔で意欲を示した。
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=421078&media_id=30

 ドリー・ファンクは、私が一番プロレスに夢中になっていた頃のNWA王者。はじめて来日したときの記憶も新しい。その前のNWA王者は荒法師ジン・キニスキーで、NYのブルーノ・サンマルチノもそうだけど、パワーファイターがマッチョに目立っていた時期だった。サンマルチノは、マシンガンキックとかバックブリーカートか無理矢理考え得意としていたような技もあったけど、w やっぱなんといっても鯖折りが決め技であった。荒瀬のがぶり寄りか、サンマルチノの鯖折りかというくらい、腰の入ったえげつない技だったよな。キニスキーも、キチンシンク以外に技が思い出せないくらい、決め技で倒すと言うより、ガツンと決める感じだった。その荒法師(この愛称もすごいものがあると思うけど)が、優男みたいなドリーにトーホールドされて、速攻ギブアップした映像を見て、こんなやつ認めないとか、いろいろ議論した覚えがある。史上最弱ぢゃね、とかゆっていて、今度は馬場勝つんじゃねぇの?そしたら、NWAチャンプだし、力越えもありぢゃね??みたいな。
 当時は、“グレート・テキサン”ではなく、テキサスブロンコ(荒馬)とかゆわれていたんじゃないかな。技はトーホールド系とあとは、ダブルアームスープレックスなんかかなぁ。ビル・ロビンソンがやると人間風車で、ドリー・ファンクがやるとテキサスブロンコスープレックスと、ベタな技だったが、ボクらがプロレスに夢中になったのは、ゴフマン的な関心ももちろんあったのは事実だが、それ以上に技をやってみたかったんだよね。当時プロレス技を宴会とかでやって氏ぬ人が多かった。圧倒的多数の氏人が、ボストンクラブ=逆エビ固めだったんだけどね。私も近所のガキをキーロックで半日締め上げて、手が腫れ上がり怒鳴り込まれたことがある。そういう技への創意が、ガチボーイな学生プロレス研究会につながっていったんじゃないかと思う。同級生で商学部で成績トップのS君というのが、えげつないファイトでじつに人気があったように記憶している。
 ということで、プロレスがぢぢいでもできるならだ、プロレス新聞でもある東京スポーツが、無罪ならフルハム三浦元社長プロレスデビュー、景山民夫さんの追悼興業とかの記事をかかねぇかとそわそわしてしまうのであった。対戦相手は、涅槃で待つくらいしか思い浮かばないのは想像力の貧困といわれても仕方がない。ハンマーとか、拳銃とか、凶器攻撃やったら、大うけだろう。ただまあ、フルハム三浦としては、法廷ゲームにしか興味ないのかもしれない。命がけのチキンレースで、著書出しまくりで、ギャラとりまくりで、大もうけ、ピカレスクなロマンでも狙っているのかもしれない。