レスカルとジャンボ鶴田の修士論文

Carpe Diem

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 タカラヅカで卒論を書きたいと一年ゼミの自己紹介で言った学生が、うちのゼミでタカラヅカで卒論を書き、今は某通信系会社でタカラヅカの仕事をしているというご連絡をいただいた。こんな恵まれた人生を誰もがおくれるわけではないだろうが、なんか元気の出る話である。その学生が、卒論の時に使ったのが、辻泉さんからいただいた風塵社刊行のファン文化の本である。同じ表紙の本をいただいたので、??と思ったら、あれはシリーズ本の一冊だったんだな。で、また辻さん本を出したのかと思ったら、小林義寛さんと大山昌彦さんからだった。ありがとうございました。
それぞれのファン研究―I am a fan (ポップカルチュア選書「レッセーの荒野」)

それぞれのファン研究―I am a fan (ポップカルチュア選書「レッセーの荒野」)

 本の主題はプロレス本で、レッスル・カルチャー、略してレスカルだという。メディア論の試行で、さまざまな知見でボクシング、プロレス、総合格闘技、相撲などを考察するという趣向である。なんといっても、目玉はご遺族の了解を得て、故ジャンボ鶴田さんの修士論文が、小林さんのコメント付きで、紹介されていることだろう。プロレスファン、鶴田ファンなら、一度は手にとってみたいのではないか。相撲の黄金の左手、ゆるふんの輪島関の卒業論文は、ただ一行「うっす、輪島です」の一文だったというフォークロアがあるわけだが、鶴田さんの場合はそういうネタを引用するのもはばかれるような力作になっている。
 やはりジャイアント馬場の後継者であったレスラーの修士論文が日の目をみたわけだから、三大新聞他各種メディアで取り上げられてしかるべき本ではないだろうか。関係各位が、語るのを鶴田の修論について来てみたいものだ。例えば、編者は次のブログ記事のトラックバックグレート小鹿さんのブログに打ったのだろうか?あるいは、絹本とかもしたのだろうか??興味は尽きない。

『レッスル・カルチャー 格闘技からのメディア社会論』
メディア・文化研究, 身体・格闘技『レッスル・カルチャー』(通称・レスカル)のゴールがやっと見えてきました。2007年から刊行が始まった風塵社の「ポップカルチュア選書」シリーズ第3弾となります。まだお見せできませんが、表紙と帯の素案も上がってきました。ひとえに編者の怠慢(と風邪)のせいで、ひそかに目標にしていた年内(格闘技イベントのある大みそかまで)の出版は無理となりましたが、1月中には店頭に並ぶようになるのではと思います。良い子はお年玉を1890円(税込み)だけ残して待っててくださいね。「格闘技を文化としてとらえる」というところから出発したので、当初、批判性はあまり意識していなかったのだけど、結果的に現代日本のメディアや社会状況をかなり批判的にとらえなおす内容になった気がしています。また、全体としての一貫性や統一性もそんなに意識していなかったのですが、図らずもメディアを通じたナショナリズムや暴力、排除のメカニズムを多角的にとらえるものとなっています。その意味では、十分にメディア研究であり、文化社会学にもなっていると自負しています。タイトル、帯文、目次は以下のとおりです。プロレス、格闘技ファンにありがちな「内輪ノリ」を極力排し、あえて距離を取ったのも特徴ですので「格闘技は嫌い」「興味なし」という方にもぜひ手にとってもらいたいと思っています。前にも書いたとおり、これをもってしばらくはサブカル研究を封じて、原点のメディア研究に回帰するつもりです。----------------------------------
岡井崇之編『レッスル・カルチャー 格闘技からのメディア社会論』風塵社
格闘技が映し出す現代日本。メディア論、精神分析カルチュラル・スタディーズ、コーチ学、人類学など多様な視点から「レッスル・カルチャー」(格闘技文化)に迫る。モンゴル相撲(ブフ)から見た「朝青龍問題」や、故ジャンボ鶴田の幻の遺稿も収録!
(帯文から)[目次]まえがき(岡井崇之)第1章 総合格闘技はどのように受け入れられたのか(岡井)第2章 マンガにおける格闘技の暴力と表象(森山達矢)第3章 「健全なる」肉体(小林義寛)第4章 プロレスファンが使用する集団語(小林正幸)第5章 「ヤンキー」からプロボクサーへ(大山昌彦)第6章 ジャンボ鶴田のプロレス理論(鶴田友美・小林正幸)第7章 大相撲の国際化とメディア言説(バー・ボルドー)参考文献著者略歴
http://d.hatena.ne.jp/sweetrevenge/20091231/1261162081

 相撲の朝青龍論については、新井克弥さんだったか、ブログに播磨灘と比べていたのはかなり面白かったが、鼻骨折りまで出てくると、80年代世代も面白がってばかりもいられないだろう。この本の朝青龍論は、そういうひねった書き方ではなく、生真面目に書いている感じだが、ケレン味たっぷりの他の著者とよく馴染んでいるのが、面白い。それはともかく、格闘技の人気者の社会心理史というのを、市川孝一さんの『人気者の社会心理史』になぞらえてだすこともできるだろうね。
 60年代=力道山ファイティング原田の時代、70年代=ジャイアント馬場と猪木の時代、つまりは高度成長から内省、自己鍛錬の時代へ、というのは明白なんだが、松田聖子にあたるネタ系は誰なんだろう?ダスティ・ローデスとか、バンバンビガロとか、そんなのしか思い浮かばない。が、よく考えてみると、女子プロレスなんだろうね。プロレスだと、そのあといじめられっ子の高山とか、けっこうキャラ立ってるんだけどね。とか、よく考えていたが、そういうのとも違う、くっきりとした面白い説明がいろいろ書いてある。
 見世物だったプロレスが、メディアに乗っかって行く過程というのを、異形のレスラーから照らし出すミゼット・プロレス論は、なかなか挑発的な議論である。複数の男と戦ってのしちまったジャックナイフのファービラス・ムーラに勝って世界チャンプになった小畑千代なんかと、いっしょに興行していたプリティ・アトム選手たちは、というか、もしかすると小畑千代も含めて、当時は異形な要素があったんじゃないかと思う。
 男子プロレスだって、国際プロレスが出したヨーロッパのプロレスという切り口は、ビル・ロビンソンというイギリスっぽいヒーローを生み出したけど、同時にフランスの香りただようカシモドだとかを紹介した。というか、カシモドといっしょに日本に来たモンスター・ロシモフは、後には大ヒーローになったわけだが、来た当時はフレンチテイストの見世物サーカスっぽいところがあった。グレート草津がカシモドに執拗にニークラッシャーをし、そのカシモドが演劇さながらのアウラを放って、小悪党を演じていたのも懐かしい。
 とまあ、昔話の細部知識への固執丸出しで、煮え切らない書き方をしているようなことを、小林さんはズバッと急所をつかみに行っているカンジで、色々批判もされる要素はあるだろうが、問題提起としては興味深かった。大山さんのヤンキー論は、ひとつのトレンドの一翼を担う覚悟なんだろうが、高山や亀に負けた内藤なんかの路線と比較すると、さらに面白い要素もあったかもしれないとか、考えていたら、時を忘れた。ちょっといろいろあるので、あまり書いていると叱られるのでこのへんで。お礼はしなくてはいけないと言うことでありました。