ジンメルの「女性と流行」を読む

 ジンメルの「女性と流行」には、ジンメル流行論の基本論点が凝縮されている。そして、ジェンダーバイアスを含んでいると批判されるような議論が、あちこちに見ることができる。しかしまた、そこには文化の伝達、拡散などをめぐる面白い議論が胚胎されているようにも思われる。
 ジンメルの流行論は、文化の伝播という観点からみるならば、高級文化から大衆文化へのひろがりを指摘したトリクルダウン説が有名である。これに対して、20世紀アメリカの社会学は、まったく逆の経路の可能性を模索していたというのが、筆者の見解である。*1筆者はこれを、「サブカルチャーのメイン化」という観点から、この経路に注目している。ここで問題は、両義的な文化表象が一般的である19世紀ドイツの都市文化と対峙したジンメルが、−−「見下ろす」視点があることは否定できないにしても−−トリクルダウンのみに固執したのだろうかという疑問である。このような意味で、「女性と流行」は興味深い論文である。*2
「女性と流行」(1908)の冒頭で、流行には、一般性衝動=模倣への衝動、個性化衝動=突出への衝動の二面性があるという、自説をくり返している。*3洋服で言えば、流行っているものを着たい、しかし他方、それを着ることで「違い」を証明したいというようなことである。流行の服を着ていれば、同じのを着ている椰子だっているだろうけど、そういう椰子にあうとなぜかムカツクってこと。
 とまあ、ここまではいいのだが、ジンメルはこれを踏まえ、「弱者としての女性が流行にこだわる理由」というものの考察にはいる。同調傾向については、「良風美俗」、「ふさわしさ」、「弱者は個性化を避ける」、「平均的な生活様式は、強者にとっては、自分の例外的な力を利用する妨げとなるのだが、弱者には唯一保護を与えてくれるものである」。などの説明が与えられている。その上での個性化について説明が行われる。

「女性たちは、『良風美俗』のゆるぎない支えのあるところで、つまり一般的な水準の人並みがあったうえで、相対的にできるかぎりの個性化と指摘個性の突出を切磋琢磨してはめざしている。流行こそは、こうした女性たちにもっともよい配分を与えてくれるのだ。流行は、一般的模倣領域のひとつであり、大きな世間の波に乗って泳いでいけばいいのであって、個人は自分の趣味と行為に対する責任から逃れることができる。それにもかかわらず、突出であり、目立つことであり、人柄を個性的に飾り立てる」。

 女性ということだと、バリアフルな差別的言動ってことになると思うけど、弱者、陰、病気・・・という一連の19世紀都市文化的な文化表象の一方と読みかえるならば、ジンメルの議論の意味合いを、より正確に読みとることができるように思う。別に19世紀なんかにこだわる必要もないかもしれない。たとえば、田舎の方が流行に敏感ってことでもいい。怒田舎の山奥で、おばちゃんたちまですげぇ茶髪にしているのをみたことがある。また岡山で「ウォークマンなんて流行遅れ」だと、学生に指摘され、(*_*)だったことがある。流行らないと言われ、びくびくしながら、強迫観念でいろいろなものを買ってしまう人々は、流行モンを買っておけば安心ということがあるのだろう。
 ここでジンメルが、「個性化衝動と集団埋没衝動の配分の案配、バランス」ということに注目していることには、注意したい。現象的には、特定の生活領域で一方の衝動が抑圧されると、他の生活領域で噴出するということで、一種の安全弁としての流行があるのだという。で、女性の生活は、平均的でまとまっており、だからファッションの領域で活躍をめざすなどということを言う。そして、個性化と集団化の衝動と同じことはは、生活内容の一般性と変化との関係にも言えるなどと言い、次のような対比を行う。

           男性         女性
中心的な領域  変化をもとめる  安定を求める
周縁的な領域  変化に無頓着   変化に敏感

 そして、流行は、職業的地位の代替物であるという。ただし、他方で、ジンメルが「現代の解放された女性たちは、男性的なあり方に近づき、その個人的差異や人柄や動きを見習おうとしているが、だからこそ、流行に対する無関心をはっきり表明している。」と言っていることにも注意したい。ジンメルは決して、「男性的なあり方」を男性に固定して考えているわけではない。また、「男性的なあり方」を優越的なものとしているわけでもない。」

 男性は、自然に職業的な地位に入っていくのであり、それにより、当然のことながら、比較的平均的な領域に組み込まれていく。職業的な地位という領域では、男性は他の人と多くの点で同じである。多くの場合、この地位というもの、この職業というものの単なるサンプルにすぎない。他方で、その代わりに男性は、この地位のもつ意味や、それに付帯する実際的な力や社会的な力による装飾を獲得する。男性の個人としての意味に、地位からくる意味が付け加わるのである。そのことで、純粋に個人としての力には欠けていたり、それによっては補えないことがカバーされうるのだ。

「多くの場合、この地位というもの、この職業というものの単なるサンプルにすぎない」という文章の主語、「男性は」なんでしょうかねぇ・・・。原典みてないけど。「地位のルール」をつくって、それに精通し、威張る人・・・。ブランド企業。ブランド大学。関係ないけど、肩パット、制服、 虎の敷物、熊の剥製・・・などを思わず思い出したりもする。要するに男も構造的には大差なしってことかなぁ。で、流行の働きもこれと同じということになる。

 流行もまた、特にどうということのない人の、自分の力だけで個性的な存在となる能力の欠如を補ってくれるのだ。そんな人も、流行によって、特徴ある特別な一段に属し、世間的にもまとまった一団に属するからである。もちろんそうしたとしても、その個人その人は、一般的な図式に取りこまれているのにすぎない。ただし、この図式は、社会的な観点から見れば、ある個性的な色合いをもっており、社会的な迂回を必要とするとはいえ、その人が純粋に個人としてのやり方ではできないことを補完してくれるのである。

 「サブカルチャーのメイン化」という観点からすると、次のようなところが非常に興味深い。「新しさ」=逆を求めたにすぎない。つまりは、スカートの丈、流行の色、眼鏡のかたち・・・。個性と賤民。ジンメルにあるのは、冷めた視点か、それとも蔑視か・・・。北川東子ジンメル』(講談社)の女性文化論などを併読すると、両性具有者ジンメルの、女性文化、さらにはそれと男性文化との「仕切り」、「線引き」、あるいは「ディバイド」などについて、非常に興味深い議論をしていることがわかる。もちろん父権論に同調するつもりは毛頭ない。ジンメルもそうだろう。論理的に太い議論にするには、このあたりをサブとメイン、高級と大衆などと絡ませて、論理的に詰めることが重要なんだろうけど、まあそっからあとは、またこれからのお話。

 花柳界が新しい流行の開拓者となることはよくあるが、それは花柳界の独特な根無し草的なあり方と関係がある。社会が花柳界に割り当てる賤民としての存在は、あからさまな形であれ、潜在的な形であれ、既得権的なものや確立されたものにたいする憎悪を生み出す。この憎悪が比較的無邪気な姿をとったのが、たえず新しい現象形式を追い求める態度である。まだ内面的に完全に奴隷化されていない賤民的な存在には、なべて破壊衝動が固有であるが、その破壊衝動がいわば美的な形式をとったものが、新しくていままで見たことないような流行をたえず追い求め、これまでの流行とまったく反対の流行を情熱的に追いかけるあの執拗さなのだ。

 五輪もほとんど終盤で、さすがにメダルラッシュというふうにはゆかず、しかし生活のリズムは戻らず、遅く起きて大学へ。大学の定食を食べるのも久しぶり。そして研究室で、本を読み出す。ザッピングはザッピングだけど、ミルズとパークとジンメルというラインアップである。ちょっと外出して、友人に引率随行のみやげを渡し、そのあと吉祥寺に行って回転寿司をつまんだあと、大学でブログ。といってもジンメルだし、1時間もかかってしまった。その後泳いで、帰宅。うだうだして、仕事するっまえにネット。

*1:仲川秀樹『サブカルチャー社会学』は、シカゴ学派社会学、とりわけブルーマーの集合行動論、流行論が、トリクルダウンとは異なる経路を開発したと指摘している。

*2:ここで、「サブ−メイン」の意味について、一言しておく。「メイン化」という問題は、「大衆化」とは同義ではない。人口に膾炙すれば、サブカルチャーでなくなったということにはならない。この点は、大塚英志サブカルチャー文学論』を読めば、一目瞭然だ。いくら部数が少なくても、読む人が少なくても、世の風俗に埋没せず、一定の方法をもって世界観的な作品性を峻立させているものはメインな文化、大塚のことばで言えば、トータルな文化だということだ。もっと平たく言えば、純文学の小説家は売れてなくても文化人として政府の審議会などの仕事を任されることはあるけど、いくら売れていてもギャグマンガ家だとか、ゲーム作家だとか、お笑い芸人だとかが、そんなものになったら、ニュースになるか、あるいは泡沫的な色彩を帯びざるを得ない面がある。小林よしのりは、いろんなコミットメントを続けてはいるが、その作品や影響力は、健全なまでにサブカルチャー的なものを戯画として具現している。

*3:「個人には他者との同調を求める欲求と、他者との個別化や差異を求める欲求の相対する二つの欲求がある」(『流行』全集第七巻)