サブカルチャーの社会学と「動員のオントロギー」

 今日は仕事とあと月曜から新学期なので準備で鬼のように忙しいので、一応一つ短い原稿貼っておきます。数年前に書いた解説です。商業出版がらみのものは、慎重を期すべきだと思っていますが、まあほとんど見る人もいない場所ですし、またもとのものが品切れでしょうし、短い原稿なのでご勘弁ということです。これをもっと長くして昨年発表した論文もあるのですが、それはまた後日ということで。この解説は、書き出しの一文以外に特にみるべきところもないのですが、資源動員という観点から若者や高齢者や田舎に住む人々や障碍を持った人々などをみることができるのではないかということ、どんな反体制的でも、弱いものでも、あるいはどのような言説も、それは動員であると考えることができるのではないかということ、つまりは動員して利用するということばかりではなく、自己動員もありうるでしょうし、また○○論として論じる場合も、どのような接し方で誰と交流を持とうと、それを動員という観点から議論することはできるーーもちろん無条件とは行かないし、また総撤退の意味合いも考えるという条件付でーーということを議論したつもりです。その意味で稲葉振一郎氏の近著は興味深かったし、同著に寄せられた批判には考えさせられるところ大であったということは、以前にも述べたとおりです。「ホモエコノミックス」「ホモソシオロジクス」などにならって言えば、「ホモ動員」ということにでもなりましょうか。これじゃあ、ゲイパレードと混同されるでしょうか。まあしかし、「ホモモビライゼーション」はおかしいっすよね。「動員の存在論」「動員のオントロギー」とかかっこつけてゆうのもなんですしねぇ。一応キャッチコピーとしてはこれかなぁ。

サブカルチャー社会学

 サブカル論と言えば宮台真司。かっこよさとあやうさの不安定な均衡の上に成り立つ世界を、軽快なステップワークで分析する。おまけになんだか心にしみる。でも、卒論でマネをして、たとえば汚ギャル論を書いたとしたら、「こんな類のものは社会学ではない」と叱る社会学教師はけっして少なくないと思う。無理もない。「こんな類のもの」は、長いこと社会学の対象などではなかったのだ。
 「こんな類のもの」にはじめて「学問の光」があてられたのは、二〇世紀初頭のシカゴである。暴力、性、酒・くすり等、危険な誘惑に満ちた「はみ出し者」の世界は、それまでは、およそ文化とは無縁なものと考えられていた。そこに独自の文化があることをはじめて認知したのが、シカゴ学派社会学だった。
 シカゴ学派は、移民や貧困層など「はみ出し者」の文化=「もの語らぬ者」のサブカルチャーを調査した。社会踏査とも呼ばれる足を使った詳細な観察、聞き取り等のフィールドワークが行われた。これは、社会病理の統計的把握と政策的処理だけではなく、「はみ出し者」独自の自律性、能動性=可能性を視野に入れた実践・方法であった。
 六〇年代には若者文化がサブカルチャーの代名詞となった。若者たちは人種、戦争、暴力、性等の問題と向かい合い、異議を申し立て、様々な生活実験を行った。こうした試行にマルクスフロイト起源の解放理論をあてはめるのが、当時の「時代のリアル」だった。
 今日的見地から、この時代の若者文化が画期的であったのは、文化が伝わる新しいチャンネルが開示されたことであると思う。それまでは、ジンメルの流行論にもあるように、高級から大衆、上から下へという伝播経路が一般的であった。これに対して、この時代の若者文化は、サブからメインへと伝えられた。
 低俗な欲望・身体動作、暴力や退廃の象徴だったはずのロック音楽、長髪、ミニスカート等は、人間性に正直な表現として受容され、人口に膾炙し、市民権を得る。文化の場としてのストリート、カフェ、ライブハウス等「高度な実験」の場が、ポピュラー文化の場となる。また異議申し立てや、ネットワーキングの思想・スタイルは、国際協力、ジェンダー、環境等をめぐる政治参加・交渉の組織(NPOやNGO)、生活実践の文化として制度化されてゆく。それらは、現在、重要な文化研究の対象となっている。
 七〇年代以降、若者の急進的運動は急速に沈滞した。今日まで、いろいろな若者像が探求された。日本では、なにごとにも熱中できないシラケ世代、自分を決められないモラトリアム人間等が批判され、そして若者は理解不能な新人類として括られるに至る。
 はたして、若者文化の終焉を説く議論が登場する。曰く、メイン化したサブはもうサブではない。曰く、メインが多様化してメイン自体が消滅した。こうした論者は、思い入れによる理論のあてはめを批判し、冷静に事実の分析を行った。そして、標準化されたアンケート調査に基づく研究成果も出されている。
 今日、サブカルチャーとして若者文化に注目することに意味があるとすれば、それがビジネス、行政、運動、マスコミ等に動員されるべき未開発の文化資源であるからと、極言できるかもしれない。では、動員できないものは、たとえば社会病理やノイズといった烙印で、整然と分別・処理すればすむのか。
 今日、汚いからだで街を歩き、人前で平気で抱き合い、誰とでもさかる若者が、問題になっている。ゲームや携帯に没頭する「親指族」は、脳が退化しているという言説もある。そのうち直立歩行をやめ、路上で排便するようになるという、悪い冗談まで飛び出す始末。しかし、サブカルチャー研究は、「動物化」したとされる若者たちの文化(身体の「構え」=attitude)、そのポップであやうい「かっこよさ」にこそ注目すべきなのかもしれない。「動物化する者」の文化と社会性は、−−高齢者、田舎者、障碍者等、サブカルチャーからも暗黙に排除されてきた者たちのそれと同様−−今日、サブカルチャー研究の重要な調査課題、理論化の課題となっているように思われる。