ログ解析をしていると、検索語佐々木高政からのアクセスがわりにある。何でかと思ったら、佐々木先生のまとめさいとのようなところにリンクされていた。まさかご本人ではないと思うが、一年生の時一年間受講しただけの者がリンクされているのは、申し訳ない気がする。というのも、佐々木ゼミと言えば、英語の達人の集まるゼミで、英検一級をトップクラスでとるような人の集まり、というのが通常の理解だったのである。まあしかし、ニーズがあるなら、英検三級も持っていない私だが、もう少し書いておこうかとも思う。
一般教養の授業も厳しく、受講するのはそれなりに自信のある人ばかりだったが、それでもかなり落とされたりするので、絶対受講してはいけないと寮の先輩に言われた。私が受講したのは、一つの事情がある。母校は入試問題に和訳英訳しか出ない大学だった。で、とりわけ英作文はちゃんとやった。高校一級下の優等生が、英語は作文が基本といっていたからである。で、大学でも英作文の授業をとりたかった。最初、英語学の久保内端郎先生のクラスに申し込んだ。著名な英語学者ということなど知らず、楽勝と思って申し込んだ。くじでオチ、先生のクラスなんですぅ、と泣き落としに行ったら、一喝され、佐々木先生に回れと言われた。そうなると、引っ込みがつかない。著名な先生だし、やってみるかという気持ちになった。
当時も高校でアメリカ留学したという人たちがいたし、高校一年で英検一級なんて人たちもいた。テキストに一切書き込みもなく、対して予習もしていないような英文を音読すると、柔らかい日本語に直すのを目の当たりにしたことも何度かある。佐々木先生のクラスにも、寮で昼まで寝ているような我々とは明らかに所作立ち居振る舞いの違う連中がいた。あるとき、先生が英語のテープを流すと、そいつらがケタケタと笑い出した。佐々木先生は、にんまり笑って、それだ!って感じで、ちんぷんかんぷんの私は背筋が寒くなった。ただいま考えると、そこで、なぜそこだ!が重要なのかをわかったことと、高校時代お経のように毎日音読した和文英訳修行の短文群などが疼き出したのは、自分の可能性でもあったし、また先生の教育力でもあったのかと思う。高校時代に、学年一の優等生の猿まねでホンビーを必ず引くようにしていたことも、よかったのかもしれない。受験でやったのは、出る単の前半を覚えただけで、模擬試験では常に一桁(得点だぜw)だった私ではあるのだが。
授業は黒板に出て、演習問題の和文英訳を書く。それを先生が講評する.そんな感じだった。直訳みたいな英作文とか、あとなにより、当時受験でよく言われていた「失点しない英作文」をすると、罵詈雑言が飛んできた。サイテーの英語とか、他はともかくうちの入試ではゼロ点とか。そして、いい英語の場合は最高の英語と絶賛した.できる連中は、最高の英語と言われるために努力した。そして、私は、なぜサイコーなのかを考え続けた。出席は一切とらない授業であったが、一回も休まなかった。予習ですべての演習問題の答えをノートに書き、教室で自分で直す。ところどころに、サイテーとか書いてあるので、サイテーの意味はわかったのかもしれない。もちろん私も黒板に出て書いたこともある。サイテーとも最高とも言われたことがない。まぐれで大学に合格した私は、みそっかすだからだろうな、と思っていた。
闇雲な乱取りのようで、時々先生はモームだとか、著名作家の英文を黒板に書き、サイテーと罵倒して、最高なものに書き換えるというようなことをやった。すげぇことすんな、と思ったが、繰り返し読んでいると、理屈がわかってくる。あるとき、先生が、小平の図書館で購読の授業の予習をしているのを見かけた。英作文ではなく、購読はどうやってんだろうとか思ってみると、普通のよく見かけるテキストである。どうせ顔など覚えてないだろうと思って、隣に座って、ちらちら見てみた。ぶつぶつ言いながら、英文を読み、ところどころに英語で書き込みをしている。ところどころ、アンダーラインを引いたりしている。これは最高サンプリングなのかなと思った。そういうものをあつめて、整理したものが、暗記用の例文であり、後の英文解釈の本なのかなと思う。ジゴロが、サイコーの口説き文句を集めているのといっしょか、などという皮相な理解をして、悦に入ったのを思い出す。
英語を読むことを習慣づけるというのが一つの基本、ということは、山川喜久男先生の英語学の授業を受講したときも感じた。これもシビアな授業だったが、教職で仕方なくとった授業である。古代英語、中世英語、近代英語などの英文を例文として、不定詞や動名詞の用法について実証的に授業するものだった。必死で授業を聞いたが、出された課題は、自分でサンプリングした例文を用いて、ある課題について実証するというものだった。授業の例文を用いてもいいが、それだけだとだめということだった。このときすべてが見えた気がした。そして、それはある意味当たっているが、ある意味間違いの始まりであった。このことは、行方昭夫の著作群を読んで、「話せなければ読めない」「聴けなければ読めない」ということを痛感したときだった。そのときに、佐々木先生の授業で、テープを流し、ケタケタと笑わせたことの意味も理解した。結局今に至って、英語はさび付いたままである。
前にも書いたが、佐々木先生の最後の課題は、安寿と厨子王の物語を英訳することだった。森鴎外だとか、二葉亭四迷だとかについての文学的教養のある奴には、たまらない知的刺激を感じたであろう課題である。そして、なんと難しい課題と思っただろう。また、英文を読み慣れている連中は、課題の難解さに頭を抱えたかもしれない。しかし、受験参考書みたいなものしかみたことがなく、大学の授業もちょんぼとシビアというような語彙でしか考えられなかった私は、意外にちょんぼじゃん、と思った。原本はすぐに手に入る。英訳だとか、森鴎外とかを探す人がいることは、先生は視野に入れていた、しかし私は初等中等教育の教科書を探した。
思想性のかけらもないが、授業で学んだサイコーとサイテーという語彙には、感覚を研ぎ澄ませた。授業のなかから、サイコーを集め、それを駆使して要約を書いた。チョットだけ理解していたことは、簡潔で論理的に引き締まっていて、意味が平明に躍動するおお!!が大事だということくらいだ。主語の取り方という語句は知っていたが、名詞構文とかは知らなかった。述語だとか、動詞だとかは、ちんぷんかんぷんの状態だった。正直、サイコーを並べておけば、いいですかぁ???、と今の学生と同じようなやり方たったと思う。結果として、いい点がもらえたのは偶然であることは、今ははっきりわかる。当時もうすうす感じていた。やり残したことのうずうず感は、大学院時代くらいまで、私の英語力を伸ばしたと思う。精神を病んで、留学を一生あきらめたときに進歩は止まったが。ちなみに、50人のクラスで48人優(当時はSはない)がついた購読の英語で、私はBだった。まぐれで入試に受かったのに、まんべんなく学習時間をすべての科目に割く余裕はなかった。
佐々木先生の授業で学んだ結果は、たとえば英文要約を書くときなどに時々思い出す。少なくとも、要約を「私は」とか書き始めない。英語の論文も書いてみようかとも思うが、なかなか時間がない。もう一つ、英語を読んでいて、時々サイコーとかサイテーとか残響することがある。これは間違いない教育の成果であり、また自分の資質だったかと思う。それを育てきれなかったことについては、ただただ申し訳なく思う。当時は、すべてを自分で理解しなくてはならなかった。まあしかし、今みたいにシラバスで教育目標を示しても、授業と向かい合う語彙は大して変わっていないようにも思う。