ドラマ『ドラゴン桜』

 夕方から水泳。今日はジムが休みなので市民プール。武蔵野のプールは広々として泳ぎやすい。しかし、なぜシャワーで石鹸やシャンプーを使ってはいけないのかわからない。どうにかして欲しいものである。前かがみになったら腰がグニュと痛みを感じた。軽いぎっくり腰なのかもしれない。前に雪の時アイスバーンで自転車もろとももんどり打ってひっくり返ったときと同じ痛みだ。
 そんなかんなで、家でごろごろし『ドラゴン桜』のドラマを見た。マンガもろくに読んだことがない。マンガを読まなくなった。前衛的な作画のものはあまり見なくなったことが大きいかもしれない。安定した見慣れた作家のものしか読まなくなっている。情報もあまり入ってこない。今年4人まんがで卒論を書くので、この機会にしっかり論理を固めて行きたいと思っている。かつては、スポコン、やさしさ、モノセックス、余白、脱力、寡黙など、自我の様態を象徴するような物語・作画がスタイル化された、というか「ロック・イット・うぷ」「パンク・イット・うぷ」「ポップ・うぷ」っつーか、サブカルチャー的な「構え」をメイン化、スタイル化し、人口に膾炙したというようなところがあったということになっている。この「ことになっている」が、今次点からみてどうなのか、「ことにしていた」欺瞞が暴かれるのか、萎え萎えな今が再確認されるのか、あるいは・・・というようなことを見てみたいというのが、凡庸かもしれないけど、私の関心だ。矢沢あいをどう論じるか楽しみ、って完璧人のふんどしで相撲を取るだが、今日日ふんどしはもんだいになるかもしれないのですね。w
 んなことはともかく、『ドラゴン桜』だけど、「さほど変わらない論」の方がまず伝わってきた気がした。ぢぢいだからあたりまえなのかもしれないけどさ。要するに、浦沢直樹が、YAWARAは巨人の星をじょーだんぽく描いただけと言っていたようなこと。まず頭に浮かんだのは『エリート狂走曲』。えげつない方法を駆使して、エリート学校に入った少年が東京大学に合格する話。ペテンや悪戯のなかに、ものごとの基本が描き込まれている。まあしかし、ここではガキは徹底的に自立していて、自分をもっていて、のし上がって行く。教師はえばっていて、しかしコケにされて情けない。『ドラゴン桜』は、もう少し違う位置から、手の込んだ物語が創られているように思った。阿部寛は、あいかわらず上手で、もうあべちゃんとは言わせませんってかんじですた。
 だけど、東京大学の入試の英作文って本当に減点法でつけているの?ミスが少ない方がイイのってほんとなのかね。大学は違うけど、むかし佐々木高政先生の授業をうけたときに入試の話をしていて、ミスがなくてもサイテーの英語は零点、ミスがあってもサイコーの英語は満点とかゆっていたけど。冗談なのかもしれないけど。この先生、けっこうシャレのきついこと言う人だったし。あと評価もサイテーとサイコーしかないのよね。黒板に英作文書かされて、容赦なく罵倒したかと思うと、絶賛するから面白かった。たとえば、読みほどきようもないくらいパッツンパッツンに引き締まった主語をとっていたり、主語述語の関係にドキリとするような判断が示されていたりみたいなものは、荒削りでもサイコーと言っていたように思う。で、「こういうのはミスがあっても入試では満点だよ。逆に文法があっていればいいってモンじゃないよ。採点者がいうんだから間違いないよ」とかゆっていたように思う。めたくそなことを言うなぁと思いつつ、エスプリは脳天に突き刺さった。高校では、英作文は日本語力と習った。どう言いかえるかが問題。「食欲がない」なんつーのも、「腹減ってない」みたいにゆえばいいんだYOとか習った。これを介在させると、サイコーの英語とミスのない英語の底には、通じあうものもあるのかなぁと思った。まあ最近は、しゃべれて、きけて、書けてという使える英語を訓練された学生さんは多い。このような昔話自体ナンセンスなのかもしれない。
しかし、陸上面白すぎて、井筒和幸監督が吠えるのがきけないかも。