船津衛『自分とは何か』

 石田忠先生を偲ぶ会に出てまいりました。このような状況にもかかわらず、多くの人が参列されておりました。先生が厚生省の調査に関わったことや、ヒバクシャということばが国際的に認知されるきっかけを先生が作られたことなどは、立場を問わず各種メディアの訃報で紹介されていたそうです。門下の濱谷正晴先生が心血を注がれている被爆者のデーターアーカイブも、若い研究者なども加わり、着々と作業が進行しているようです(やはり資金がそれでも不足しているようです)。『反原爆』を再読しながらミルズを味読する、そしてさらにいろいろな生活史記録をひたすら読むゼミをしてみる、など、様々な構想をいただいて帰宅しました。
 スピーチにたたれた方の中で、今回の震災に言及された方がいて、原発における被曝について、第4のヒバクシャという表現を使っていらっしゃいました。広島、長崎ともう一つは、ビキニかと思いましたが、臨界事故かもしれないとも思い、また日本に限らない大きな事故ということでは、チェルノブイリなども思い浮かびました。
 地震のあと、親の家から久々に自分の家に帰って郵便受けを見たら、船津衛先生から送られた新著があって、張り詰めていた気持ちがプチンときれて、よくわからないのですが、郵便受けにお辞儀をしてしまいました。お気遣いいただき、申し訳ない限りです。恐縮するとともに、心よりお礼申し上げます。濱谷ゼミで、船津先生が若い頃書かれた原爆研究論文を読んだことなどを思い出しながら、ペラペラとめくったところです。考えたことなどを以下若干記してみたいと思います。


 一次文献の精査と、二次文献のレビューという独特のアカデミックなスタイルによって、多くの後進に影響を与えた船津先生ですが、本書は前著『自我の社会学』と同様、おそらくは放送大学での教育経験なども踏まえて、初学者にも親しみやすく、社会学的な自我論の問題を腑分けして、体系的に論じたものであると拝察する。前著に、一定の加筆を施した増補改訂である。加筆されたのは、携帯電話の章と、コラム類、参考文献などである。
 めくればすぐわかるが、入門書ということにはなっているが、ターナーの「役割形成」概念なども臆せずとりあげて、独自の観点から学説の流れが理論的に総括され、体系的な論述がなされている。携帯電話の章で、関係の変容が自我の変容として捉えなおされていることなど、独自な議論が展開されている。また、類する研究ではあまり見かけないような二次文献がさりげなく紹介されている。本書は大著ではないが、船津社会学の体系書にもなっているようにも思った。

自分とは何か―「自我の社会学」入門

自分とは何か―「自我の社会学」入門

病める現代人のアイデンティティのゆくえは?
現代日本人は「アイデンティティの喪失」状態におちいっている。
社会的自我論の碩学である著者が、人間の自我を他者とのかかわりという社会学的アプローチから明らかにする。
小説からみる現代若者の自我、ケータイ、ネットからみる変容する自我、他者からレッテル貼りされる自我、他者を意識して演じる自我など、現代の複雑な自我の在り方をやさしく解説する「自我社会学」の入門書。


[主な目次]
第1章 「自分とは何か」―「自我の社会学」の課題
第2章 「鏡に映った自我」―鏡としての他者
第3章 自己と他者―自我の社会性
第4章 「他者」の二つのタイプ―「親密な他者」と「疎遠な他者」
第5章 自我の形成―「役割取得」
第6章 「ホモ・ソシオロジクス」―受け身的、消極的「人間」像
第7章 相異なる他者の期待―「役割コンフリクト」
第8章 レッテル貼りされる自我―「ラベリング」
第9章 表現する自我/表現される自我―自己表現
第10章 変容する自我―ケータイする自分、ネット上の自分
第11章 見せる自我/見られる自我―「外見」による自己表現
第12章 演じる自我/装う自我―「印象操作」
第13章 他者の期待から離れる自我―「役割距離」
第14章 新しい自我の形成―「役割形成」
第15章 物語る自我―自我の構成
第16章 創発的に内省する自我―「自我の社会学」の展開
http://www.honzuki.jp/book/book/no168165/index.html

 能動的な人間が、他者と関わりあい、連帯して、社会に働きかけ、社会を作り出す。こうした柔らかみのある人間の能作に着目した社会理論として、アイデンティティ論や相互行為論は注目された。「68年」において、ライト・ミルズが現代社会への篤実な反省を促す契機であったとすれば、アイデンティティ論や相互行為論は生を紡ぎ出し、新しい社会を作り出すことを考える手がかりを与えた。体制組織、運動組織が嫌悪された時代において、「人間的なもの」の内実を表現し、社会の体系的な説明を可能にする議論として、相互行為論は位置づけられた。
 船津社会学は、ラディカルな運動とは一定の距離をとり、こうした研究動向をアカデミックに紹介してきた。そして、相互行為論と社会構造論、自我論と物象化論、社会科学方法論――ブルーマーの方法論、私のことばではgenericな方法論、山田真茂留先生たちの本で紹介されていた「感受概念(sensitizing concept)」――など私にとって魅力的な議論を展開してきた。
 船津社会学は、学問的な流行、そして時流の流れのなかで様々な議論の対象となった。そして、流れの図式化のなかで、幾度となく「総括」の対象となってきた。しかし、『自己と他者の社会学』に収められた論文で手短に述べられた主体論の核心部分は、アイデンティティ社会学の時代から「自分探し」の社会学の時代という変化を踏まえながら、重要な問題を提起していると私は考えている。
最後の章タイトル「創発的に内省する自我」は、ある意味挑発的なことばであるというようにも思われた。そこでは、ミードからブルーマーへの流れが整理されている。『コミュニケーションの社会学』で奥村隆先生が行っているような、主語的な私、目的語的な私、再帰的な私=自己という、自己の逆説性、再帰性をはじめてわしづかみに(ベグライフェン)して魅せたミード、というような面を再検討して、現代理論への接合を急ぐのではなく、ミード解釈が毅然と提示されている。とりわけ、主語的な私についての整理は、専門的にも注目される。すべての章立てと照らし合わせ、本書もまた中間報告であるということが暗示されているのかな、などと思った。この章には、二次文献のレビューなどはなく、次の著作=専門的な体系書の出版を期待してしまった。
 濱谷正晴先生の退官講義で、私はミルズにおける「substantiveなもの」という論点にとりわけ惹かれた。これまた主体的なものに負けず劣らず、ある意味挑発的で、毅然とした方法態度である。これを手がかりにして、ミルズをきちんと読むことを年賀状で宣言したら、添え書きに「別にいいよ」みたいに書いてくださったので、やってみようと思っている。今更、「人間」や「主体」を、フーコーも引用せずに論じる人はいないんだろうが、プラグマティズムやゴフマンを読み解くことは、存外射程が広いことなのではないかと思うし、守備範囲の仕事を丁寧にこなしてゆきたいと思った。妙なことを言うようだが、門脇俊介の絶筆を読みながら、そんなことを考えている。