日本社会学会の報告原稿をアップしました

Ocean Eyes

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 友人よりメールをもらい、「題目で誤解を招く可能性もある。わざわざ来た人に失礼ぢゃね??」ということだったので、当日配ることが義務になっている報告原稿のほうをアップすることにする。こちらのほうが詳しいし、また要旨の場合は要旨集を売るみたいなので学会の許可を得ないといけないかもしれないからである。
 設置審の審査みたいなの受けるので、業績数あわせみたいな報告と言われてもしかたないし、最近書いた論文抜き刷りの効果的な配布を考えてのことだけど、ミルズに関心がない人が来てもしょーもないと思うので、ウプしておきます。モーティブトーク論とかで熱く語ったりする学識がないことは、ここをみている人なら知っているでしょうけど。

動機の語彙論と「ほんとうの動機」論
――C.W.ミルズにおける動機論の動機論を中心に――
                       東京女子大学 伊奈正人
1.目的と方法
1.1.目的
 この報告の第一の目的は、ミルズにおける初期の知識社会学説から晩年の社会批判までを貫く自省的視点の抽出を行うことで、ミルズの学説研究に貢献することである。視点は動機論の動機論という文言で括られる。ミルズの作品群における批評的モチーフを担っているものである。作業は、初期論考における動機の語彙論、就中しばしば批判される「ほんとうの動機」論の再解釈を通して可能となる。動機の語彙論は、モーティブトーク論により再発見され、高く評価されたことは周知の通りである。そのなかで、ガースとの共著書と初期論考との関係などテキスト的な問題が指摘された。しかし未解決の問題も多い。あくまで暫定的なものになるが、こうしたテキスト問題を論定することは、動機論の動機論の論定に随伴する不可欠の第二の検討目的となる。
1.2.方法
テキストについては、テキサス大学の一次史料を用いた米英のミルズ研究をレビューすることで論定する。一冊を割いて共著問題を論じたOakes&Vidich1999、同著をさらに史料批判したGeary2009などを参照しながら検討を行う。他方、動機付与論によるテキスト読み込みについても言及を行う。第一の目的については、ミルズ自身が着想の典拠としてリファーしているケネス・バークの批評論との関係に焦点をおいたテキスト読解を方法として検討を行う。
2.結果と結論
2.1.ミルズのテキスト問題
『性格と社会構造』はウェーバー社会学的、社会心理学的体系化を行った教科書として40年代に構想され、1954年に刊行された。ミルズは、ガースの講義ノートを書き起こすことで同書の共著者となったが、両者の出会いは1940年秋であり、ミルズの初期2論考はそれ以前に書かれている。よって動機の語彙論は、ミルズの貢献である。初期論考と共著書では、筆致はともかく、動機の語彙論をめぐる論点としてはあまり差がない。動機付与論の論考でもブラム=マクヒューなどはより類型的な共著書のみを引用している。
2.2.「ほんとうの動機」論から“politics of truth”論へ――動機論の動機論を軸に
2.2.1. 初期論考の検討1:ことばの力動と「真実化」の原基的構造
ミルズの初期論考のうち最初の一本「言語・論理・文化」は、テキサス時代にASRに受理されたものである。同論文にもすでにバークの影響はうかがえる。ミルズは、語彙の体系に照準し、言語=行為という観点から思考の座標軸をモデル化している。ミルズのモデルは、思考を根拠づける潜在的次元=規範構造としての文化に着目するところに特徴がある。論文のタイトルが「言語、論理、文化」となっている理由もここにある。
ミルズは、リチャーズを参照しつつ、思考の語彙は社会的な目的のためにいくつかの要素を「隠す」機能を持っている、という仮説を提示している。そして、「隠す」こと=曖昧化/顕在化=区別ということばの力動から、社会、思考、文化の形成と変動を説明する。例としてミルズは、中国の伝統的な社会をあげる。年齢とそれに対する尊敬が密接不可分のものとして「曖昧語」で表現され、社会の基本的な価値づけを絶対化する傾向がある。逆に、高齢者への尊敬が薄れてくれば、加齢と尊敬の語彙は分析的に区別されるようになる。そうミルズは言っている。
また、ミルズは例として、ビジネス文化――ヴェブレンの言うビジネスの論理、セールスマンシップ、――の形成のなかで、曖昧語である「資本」が用いられるようになったこともあげている。すなわち、マネーゲームが自己目的化し、絶対化してゆくにしたがい、「資本」という語彙が汎用されるようになった。そうミルズは指摘している。 ミルズの提起した語彙分析のモデルは、このように潜在するものを読みほどきながら、思考者の「論拠」(rationale)を考察する。このモデルにすでに思考のモチーフ、モチーフの原基的構造への問いが胚胎されている。
こうした立論の決定的なきっかけとなっているのは、バークの次のような文章である。「物とうごきの名称は善し悪しの言外の意味をこっそり持ち込んでいる。名詞は一種の見えざる形容詞を伴いがちであり、動詞は見えざる副詞を伴いがちである」。ことばの力動の原基的構造を問うバークの批評理論は、ミルズの出発点から影響を与えていたということができる。
2.2.2. 初期論考の検討2:「ほんとうの動機」論と真実の意匠批評
動機の語彙概念がはじめて提示されたのは論文「状況化された行為と動機の語彙」である。動機外在説、動機付与論と通称されるミルズの着想は、K.バークの『恒久と変化』によるものである。バークは、意味を囲い込む「状況の速記用語(shorthand term)」として動機をとらえる。ミルズは、バークの動機論を集約する一文を引用している。「動機を反省するわれわれのことばは、あい矛盾し衝突する刺激の典型的なパターンのおおまかにして、速記的な描写である」。ミルズは、日常生活の動機の語彙と、哲学、心理学、精神分析学、社会学などの学問用語とを、シームレスに、動機の語彙論で説明しようとする。そして、マンハイムの相関主義に照らし、生活や学問におけるさまざまな動機づけの論理(理由・原因・根拠づけの意匠、ルール化)を、状況、集団、制度、時代などの違いにより、動機の語彙論でタイプ分けすること、いわば「動機論の動機論」の構想を示している。動機付与論が問題にする「ほんとうの動機」論もこのような自省的視点に立つなら、真実の意匠論として再解釈できる。
 この構想にもバークの影響がうかがえる。『恒久と変化』は、「あらゆる生の作品性」という観点から批評概念を社会学的に拡張した著作である。批評の方法は、「訓練された無能力」のように、ある単語(「訓練」)を、不敬だが啓示的な文脈(「無能力」)へと変換し、隠喩化すること=同書の鍵概念「不調和によるパースペクティブ」である。隠喩は、「作品としての生」の動機=モチーフを批評する際に用いられる「喜劇化」の方法である。あらゆる隠喩の洞察はそのなかに固有の盲点を含む。一定の変換は、一定の可能性から隔離する。バークは、動機を単一の隠喩に変換・還元するのではなく、隠喩を重ね、原基的な構造を問う「批評の批評」を提起した。バークの批評方法は、ミルズの方法論と重なる。
2.2.3. 大衆社会批判と“politics of truth”論
ミルズは、いわばさまざまな生活世界、作品世界、システム世界が志向する「ほんとうへの動機(モチーフ)」を批評する知識社会学を構想していた。「動機論の動機論」は、共著『性格と社会構造』の不十分な教科書的整理をのぞけば、体系化されていない。ミルズの批評的な努力はむしろアメリカの社会や社会学の「人間喜劇」を描くことに注がれた。そして、動機論の動機論の着想は後期の“politics of truth” 論へとつながり、ホワイトカラーやパワーエリートに対する批評となって結実した。
ミルズが描く大衆は、真実としてのアメリカの豊かさと民主主義を信奉し、規則を守り、よく働き、消費生活を享受し、楽しげで、力強く能動的な人間である。しかし、歴史の行く末の制御ということに関しては自律性を失っている。ミルズは「陽気なロボット」という表現でこのような大衆を捉えた。権力一元論は、多元的な社会に対する間違った素朴な認識として批判された。他方で、社会変革の可能性を封殺するペシミズムだとも批判された。しかし、ミルズの意図は、極論を対置することで、アメリカの多様性と民主主義を盲信する「真実への政治」を批評することだった。ミルズの立論は、極端な対極の提示=多様化のための一元論の批評的提起により、公論を喚起することにあった。本報告の動機論の動機論という解釈は、ミルズにおけるファシズムというメタファーの意味を解明する。
2.3.作品モチーフの文化社会学
動機論の動機論という解釈により、作品動機(モチーフ)の社会学的批評という領野が開示される。それは、合理的な統治機構が巨大な可能性を生み出すものであると同時に深刻な危機を胎んでいる現代社会において、作品としての生、そして作品としての文化、作品としての科学等の「表情」(長谷正人)を批評するという課題を提起している。
文献:伊奈正人,2010,「動機の語彙論と知識社会学」『経済と社会』38 東京女子大学社会学*1

 報告の主旨はガチンコのミルズ学説研究である。かねてよりアテクシは、ミルズの初期知識社会学論考と晩年の社会批判、社会学批判が一貫したものだという解釈に立ち、両者の分断を指摘する知見に反論を行ってきた。
 その場合、初期の知識社会学が後期にどう生かされているかということが問題となる。しかも、ポツンと50年代中葉に出版された『性格と社会構造』の位置づけも妙ちくりんだ。さらに、ガースは、ミルズの野郎パクリやがって、みたいに執拗に言っていたらしい。背景事情が見えなさすぎたのだが、テキサス大学に資料が完備され、歴史学の分野での研究が躍進し、いろいろなことがわかってきた。それを「動機の語彙論」を焦点として股ぐら一本スジ通そうというのが報告の主旨である。
 最近の研究では、歴史学者サマーズがミルズの文芸的な関心と、「真実の政治」という理念がともに40年代に出されていて、それがパワーエリート論などとして炸裂したことを示す資料類を編纂出版した。この解釈は、リチャード・ギラムが80年代に出したもんで、その後放置され、サマーズがくり返し論じ、さらに最近のミルズ研究の出色の一冊であるゲーリーの『ラディカル・アンビション』でも重視されている知見である。
 じゃあ、その「真実の政治」っていうのは何?ってことだが、ゲーリーはミルズが真実というのはラディカルなこと、ラディカルなことと言うのは真実なことという循環論法を使っていることにあえて着目する。んでもって、そこにある再帰的な視点を読みほどいてゆく。
 アテクシの報告はその視点を、「動機の語彙論」をめぐる「動機論の動機論」という解釈から説明できるんではないか、と主張する。学説研究だから、これcえちゃんちゃんでぜんぜんカメへんと思う。ただ、ンなことしてどうなるんだということも、考えていないことはない。


 オー風呂敷を広げるわけだが、それは、「作品モチーフの社会学」みたいな視点をとりだせるんじゃないのかってこと。
 それは、人々の生や学問や文化作品の表情を記述する視点であるわけだが、物語とかストーリーじゃいけねぇのみたいなことはあると思う。アテクシの場合、より科学的な描出方法を一般的に問題にするっていう関心は希薄で、サブカルチャーどう描くかが重要である。
 若者文化やサブカルチャーは融解した、という山田真茂留先生の問題提起と向かい合いながらものを考えてきた。そうなると作品の作品性が、ビシッと輪郭づけられるか、あるいは輪郭づけられないとすれば作品性をどう考えられるかが問題で、その場合物語、ストーリーと言うより、作品性と言った方がものが考えやすいってことはある。
 あと、作品モチーフというと、オナ・ホール流に言えば一定作品のエンコーディング、ディコーディングというか、なんというか、そんな動作をポイエティックに問題にしやすいんぢゃね、みたいなことっす。
 中内敏夫は、評論としての教育学について論じた際に、テオーリア、プラクシス、ポイエシスとしての教育学に言及していて、それをミルズの批評としての社会学に接合して考えてみたい、みたいなこともある。ミルズの批評は、ケネス・バークの強い影響下にあり、批評の批評というような性格を帯びている。そこで重要なのは、動機論の動機論という着想じゃないかみたいに妄想は膨らむ。
 妄想と言うより、これに関して、ケネス・バークは『動機の文法』で決定的に重要なことを言っている。そして、この本の扉になぜ「戦争の昇華のために」って書いてあるかもそれでわかるし、ミルズも世界の戦争や平和との関わりで同じことを生涯考えていたと思う。じゃあそれはなに、ってことだけど、ちょっとまだこれは公開する自信ない。ミルズがリファーしているのはツネに『永続と変化』で、もしかすると、『動機の修辞学』も含んだかなりめんどくさい問題になりそうなので、今回はそれは省略。ミルズ研究的に言えば、『社会学的想像力』でなんで何度も“substantive”ということばを使っているかということとも関わる。
 マルクス的に言えば上降の問題。パーソンズ流に言えばシンボリックメディアの問題。ミルズ的に言えば、局面概念の問題。この概念は、ウェーバーの「世界宗教の経済倫理」から引っぱってきている。ガースも含めて味読するのは鬼のようにしんどい作業だから、ヤンないと思うけど。


 1行あけたあとの妄想はやっぱり妄想だわな。しかもウルトラ不勉強な。ということで、くれぐれもみなさま時間を無駄にされませんように。つーか、1日目午前初っぱなから、バカいじりにくる人もそんなにいないだろうから、たかをくくっておりますけどね。