奥井智之『社会学の歴史』

still a Sigure virgin?

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 少し前のことになりますが、奥井智之先生からご高著をいただきました。大変恐縮しました。ありがとうございました。お礼が遅れたことをお詫びいたします。概論に続いて学史の本が出版されたことになります。公務員試験の出題者でもあった奥井先生のご著書ということもあり、前著に続いて、東京大学出版会らしからぬ,学生の懐に優しい価格設定となっています。
 構成は下記の通りです。ツイッターなどでも言及されています。特に目をひいたのは,ジュンク堂人文スタッフのツイートです。「社会学を語る上で欠かせない代表的人物を、エピソードを交えつつ著作や主張を語る事で、社会学史の流れをコンパクトに纏め上げた一冊。文体も平易で、社会学の歴史を教えてくれると共に、初心者に「社会学」とは何なのか?を教えてくれます(続く)…私事ですが、学生時代にこのテキストがあったら、講義時間に睡魔と闘うこともなかったかも知れない、と思うと少し悔しい一冊(苦笑)。」(junku_jinbunより)

社会学の歴史

社会学の歴史

内容紹介
古典社会学から現代社会学へいたる,長い旅路.社会学者たちはどう時代を生き,どう現実と切り結んできたのか.この創造のドラマを透徹した筆致で描き,読者を「社会学の闘技場」に誘うガイドブック.社会学史の教科書として,また社会学の概説書として好適.


主要目次
はじめに
1 アリアドネの糸――前史
2 創始者の悲哀――コント
3 思想の革命家――マルクスエンゲルス
4 少数者の運命――フロイト
5 繊細な観察者――ジンメル
6 社会の伝道師――デュルケーム
7 自由の擁護者――ウェーバー
8 野外の研究者――シカゴ学派
9 冷徹な分析家――パーソンズ
10 オデュッセウスの旅――マートン、シュッツ、ガーフィンケル、ゴッフマン、ベッカー
11 シシュポスの石――ハーバーマスルーマンフーコーブルデュー、バウマン
12 ヤヌスの顔――福沢諭吉柳田国男高田保馬、鈴木栄太郎、清水幾太郎
おわりに
http://www.utp.or.jp/bd/978-4-13-052023-2.html

 駒場に偽学生で行ったときの第一回目のゼミで、奥井智之vs櫻井哲夫の猛烈な論争を目の当たりにしてびっくりし、第二回目目のゼミで奥井報告を聞いて圧倒されたことは,前にも書いたことがあります。基本的な概念装置をきっちり組み上げ、論文全体が精緻に構成されており、また相関社会科学を目指す気迫のようなものも言葉少なながら伝わってきて,刺激的でした。そうした特徴は本書にも受け継がれているように思います。
 馬場修一先生の追悼論集に、カルロ・ギンスブルクをモチーフとした論考を寄せられた奥井先生が、「社会学の歴史」をどのように描かれるかというのは、非常に興味深いわけです。その後の長い教育歴をふまえた論考は、工夫され、吟味された逸話、具体例などを交えながら、創造のドラマを描き、コクのある一作になっているように思いました。専門的なご著作以外に、入門的な新書を複数冊執筆されている理由が改めて得心されます。
 『アジールとしての都市』もそうなのですが、タイトルで中身を明示していることは、大いに学ぶべきことかと思います。章タイトルに凝らしてある「一捻り」は、鑑賞に値するもので、それを読みほどくことで、明快に内容が理解されるように、という教育的な配慮が施されているように思います。「思想の革命」「ヤヌスの顔」に特に文脈明示しているなぁ、と思いましたが、それだけしか読めていないとも言えるかもしれず、繰り返し読むことで、自分なりに再構成したノートを創りたくなってくるのは、非常に感心したところです。
 構成上の特徴としては、前史が入っていること、マルクスエンゲルスを切り捨てていないこと、フロイトに一章を割いていること、それをジンメルの前に持ってきていること、シカゴ学派にも一章を割きパーソンズまでを重点的に描いていること、それ以降は10と11に二分していること、最後に日本思想史、日本社会学史に一章を割いていること。
 自分のこだわりを持っている社会学者、自分が関心を持って取り組んでいる社会問題などに照らしながら、提示されている文脈の意味を吟味すると、さらに楽しくなってきます。社会学史の著作は、トレースするための図式づくり、と言って悪ければ、下敷きづくりに徹している類書が多い中で、思考が作動するよう工夫された本書は、芳醇な一作になっているように思いました。電子図書なら閉じた瞬間に「あなたもやってみなはれ」とかロゴが出るところでしょうか。このネタはパクリですが。
 次も何か出して欲しいと思っています。例えば、最近ゼミで村上泰亮を読んでみたいと思っても、さすがに年月が経ちすぎているきらいがあります。駒場にニセ学生に行ったのには理由があって、ダニエル・ベルの翻訳を手がかりとした切磋琢磨が生み出しつつあった学問に惹かれたということが大きいと思います。奥井先生が経済学部で社会学を教えていらっしゃることにも意味があるんだろうなぁ、と思っていますし、おそらく相関社会科学という看板を捨ててはいないであろう奥井先生に一読者として期待してしまうわけです。
 理解が行き届かない点は多々あると思いますが、取り急ぎ感じたことを書いてみました。
(追記)
 今朝奥井先生からメールをいただきました。恐縮しております。
 慌てていてコメントしませんでしたが、奥井先生のご担当でもあった東京大学出版会佐藤修さんが定年でご退職されていたと知りました。一つの時代が終わったなぁと痛感しています。「緑本」の講座や叢書類など、社会学会の重鎮たちの名著を編集されてきた人であることは言うまでもないでしょう。そして、佐藤さんが編集された書物を読んでやってきた世代である私たちには、学問のキーマンとも言える編集者だったと思います。
 ふと思ったのは、佐藤さんの編集した書物を読んだ世代においては、社会学史はパーソンズまでで、そのあとはいくつかのトレンドはあるものの諸子百家というか、メインストリームを喪失しているというのが学史的な実感なのではないかと思います。私もいくつかの大学で社会学史を講じたことがありますが、テキストは三溝信先生の『社会学的思考』を使ったりして、パーソンズまででやめていました。同世代ではそういう話をよく聞きます。
 ルーマン社会学的啓蒙にしても、シカゴ学派からパーソンズという画期(這いつくばる実証主義から規範的思考、分析的リアリズムへ)に回収されてしまう、などという知り合いもおります。逆説も再帰もへったくれもなく、まあこれは暴言だと思いますが、最近ネットや学会で報告されている最新の成果も本書の主要部分と照らし合わせて、味読することが可能なのではないかと思っています。
 たとえば、ルーマン社会学的啓蒙についてツイッターでつぶやかれたことだとか、あるいは佐藤俊樹さんの問題提起を受けて、ルーマンエスノメソドロジーを専攻されている人々が議論されていることなどが、――私には難しすぎて理解できたなどと言うつもりはないのですが、なんとなく――思い出されます。そういう意味で、10と11という一括と切り分けは、むしろ私は一冊の書物ということからすると、一つの見識だと考えました。この構成には、逆説も再帰もきちんと視野に収められていますので。
 実際そういう議論の渦中にいらっしゃるとおぼしき何人かの人々が、本書についてツイート、リツイートされているのを先ほど発見しました。「これは買わなくては」とおっしゃっている人もいます。私は専用のソフトを使っていないし、あまり@のところを見ないので、気づくのが遅いんですが、むしろ10、11あたりの専門家にも本書が注目されているというのは、確認されてよいと思います。
 ついでに言うと、山田真茂留先生からも本をいただいています。ほんとうにありがとうございました。また恐縮しております。少し時間がかかると思いますが、また書きたいと思います。今日書ければよいのですが。