社会学史学会

 ちょっと前に「共著者」からのメールに、社会学史学会でミルズの報告が出る、と言う情報が入り、東京まではなかなか行けないけど、みたいに書いてあったので、行ってこいということだと思い、行ってきました。その前にジムで泳ぎ、餃子楼で餃子を喰おうかと思ったら、やってねぇの。6時から朝方までという営業時間を読めなかった私がアホでした。爆(´・ω・`)ショボーンで、まあしょうがないから、立教に非常勤で行くときに時々使ったベーグル屋でクラムチャウダーとベーグルを食す。それからKOに向かったのですが、幸い前にお世話になったS先生のご報告もきくことができた。
 一部会だけきいて、別の用事に出かけた。学史学会の大会というのは、実ははじめてだが、昔よく一緒の部会に出ていた人々が一同に会していたカンジでなつかしいカンジがした。Y技師先生なんかは、25年ほど前からまったく変わらない。と同時にまったく区別できなくなっている人がいて、名札を見て、ぎょえ〜〜!というのも、たくさんあった。発言でわかった例もある。塩見三省くりそつのジンメル学者はますます似てきているなぁと思ったら、これがO川英治さんでますますビックリ。私のなかでは、I藤勇さんも、T川直人さんも、20代の頃のままなんだもの。まあただ、人のことは言えない。ちょっと前にA川先生が低調に挨拶され、名刺を渡されたので、ずいぶん礼儀正しいんだなぁ、と思って名刺を出したら、「ぎょえ〜!」と驚いていらっしゃったし。
 昔の学会で学史、理論の部会に出ると、一次文献、二次文献を何でもかんでもリストアップして、さらにはディッサティションだとかも入手し、まして貴重なペーパーのコピー一つでも入手しようものなら、ワシもこれで高城和義、みたいな勢いだったわけなんだが、最近は丁寧に文献を読むかたちの報告になっているカンジ。けっして、文献をフォローしていないわけではない。質問されれば、言及しているから。

一般研究報告2 (14時50分〜16時5分) 司会 片桐雅隆(千葉大学
1 G.H.ミードにおける「行為」と「制度」 寺田征也(東北大学
2 プラグマティズム思想における「人間性」という課題
―ミード、デューイ、ミルズの「戦争観」を手がかりに― 徳久美生子(武蔵大学
3 ゴフマンの「人―役割図式」論 木村雅史東北大学

その分、読み方は丁寧になっていて、でもって、骨太な再構成がなされている。かつては文献で圧倒して、あとは気合い勝負みたいな傾向もあったように思うが、ゴフマンのやつなんかは、フレーム分析ベタに読み込んでいて、ビビッた。わかるところだけ拾って、解説書のコンテクストの上にのっけて1チョあがりみたいなのとは、ぜんぜん違うンだぜ、という感じで、質問に対応した姿は自信にあふれていた。ようにみえた。
 以下は、わかる人にわかればいいやと思って殴り書き。
 行為と制度の報告なんかも、SIのなかでテキトーに痛い椰子みつけて、二次文献ならべたて、こいつもシンボル化とかに注目していてよくやってるけどさ、でも言語論的展開以降のことばについての動的、体系的論究からすると、ダメダメ君、でもそれはミードのせいじゃなくてさ、ミードはちゃんと制度の議論もしていて、で、そいつがなかなかのもんで、そこからコミットメントすると、今風の奴らもビビるんじゃね??とか、大見得斬って飛び六方、とかやってもよかったんだろうけど、篤実にMSS読んでみますた、みたいなカンジは、まあ、学風っちゃ、学風だろうね。
 で、ミルズ、というか、ミードとデューイとミルズなんだけど、これも今風で、ホロヴィッツも、ブルーワも、ギラムも、ティルマンも、ヘイドゥンも、メロッシも、ゲイリーも、サマーズも、オークス=ビディクも、マットソンも、アロノヴィッツの論文集も、ミルズのガキが関わった書簡集も、一切合切潔く省略して、テキストをひたすら丁寧に読むカンジ。なのに、拙著が引いてあってビビリました。w もうこれでアテクシは、フランキー堺所ジョージ、そして中居君状態。w 貝になりマスタ。というのは冗談だけど。ビビッたのは事実。
 加齢御飯さんがヴェブレン絡めて質問したときなんかはティルマン引いて応酬とかもありだっただろうとか、思わないこともなかった。それより重要なのは、この主題こそ、一次文献を精査し、最新の研究成果を踏まえたゲイリー(ゲイリーでええんかな?カミユをカマス修論に書いてオトされそうになったんけん・・・)の伝記などを踏まえたら、ミードやデューイとの関連などもわかっただろう、とか思った。また口はさむ余地はあったのかもしれないけど、実はアテクシはまったく別のことを考えていて、それどころじゃなかったのです。
 報告者は元々、ミード、デューイ、ローティで議論していたわけッスヨ。論文もあるし。で、今日もパットナムとか引用しているわけですよ。ご活躍されてきた場所なんかをみると、門脇俊介なんかがデューイ、ハイデガーの技術論とローティみたいな議論していたのを、アテクシのような無知ではんちくなモンでも、思い出さないこともないわけで、やっぱ、そっち系の議論ベースでっしゃろ、みたいに思うわけです。あるいは、最近どこでも彼処でもあてはめてみて、おおお!とかやっている、テオーリア、プラクシス、ポイエシスとかゆう分類用語も頭にちらつくわけッスヨ。
 ゲイリーの場合、“public”ということばで、デューイ→ミルズを括ろうとしているところがあるし、当然ローティも視野に入っているんだと思うけど。私は、別の鍵語を用意していて、社会学事典の査読が通れば公開されると思うけど、それまではちょっと企業秘密みたいなところはあって、ゆえない。あわよくば、論考、いやぁ、著作を・・・書くには、テキサス逝きだよなぁ。
 ヴェブレンも本能論をパーソンズに批判され、マズローよりダメダメクンとかゆわれていて、だから、ヒューマンネイチャーだからダメダメクンとは限らない、かもしれない。問題は、そのロジック。加齢御飯さんが、リップマンに言及されていたのは、ボクは一番ビビッた。どこまで洞察されていたか。場合によっては、ショック、というか、爆(´・ω・`)ショボーン。まあ、ボクにはまだ、ケネス・バークがあるんだけど。w