- 作者: C.ライトミルズ,C.Wright Mills,伊奈正人,中村好孝
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2017/02/08
- メディア: 文庫
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私はノートを公開することにしました。訳はノートに比べれば数段すっきりしていますので、気が向いたらお手にとって下さい。
書き出しの一文。旧訳。「こんにち、人びとはしばしば自分たちの私的な生活には、一連の罠が仕掛けられていると感じている」(旧訳 p.3)。原文を見てみる。
Nowadays men often feel that their private lives are a series of traps.(SI p.3)
「こんにち、」は、「なんとなく、クリスタル」なみに上手いよなと思った記憶が蘇る。「いまどき」とやってみたい気持ちはグッと抑える。紋切り型のことばを使うとろくなことにならない。
次に、man が複数型になっているのが気になってくる。ハイデガーのダスマン意識してないのかなトカ、女子大が誇らしげにwomanが複数形でないことを強調していることなどが思い出される。
続く名詞節、直訳すると「プライベートな生活は、一組の罠である」になるはずだ。プライベートな生活は、罠、からくり、だまし絵であるという訳が思い浮かぶ。だまされないためには想像力って、どう考えても違うよな、と思う。
少し文脈を確認と思って、読み進めると、‘milieu(x)’という用語が出てくる。共訳者の中村が、最近ミリューと訳すことが多いと教えてくれる。検索して樋口直人他「東京の社会的ミリューと政治」を見る。80年代以降の内外の研究動向が詳細にレビューされている。政治的なオルタナティブの論定の基礎として用いられていることがわかる。学説史研究、文化社会学研究という観点からは、田中紀行「現代ドイツにおける〈文化と社会構造〉研究 ―― ライフスタイル研究を中心に」が重要であることも知る。この概念の源流として、テーヌ、コント、デュルケムなどの系譜があるからである。
http://web.ias.tokushima-u.ac.jp/bulletin/soc/soc20-5.pdf
じゃあなんてミルズがこのことばを用いたのだろうか。特にリファランスはない。いきなり使っている。ミルズの言う「古典的社会科学」において、一つの系譜を持つことばである。しかし、社会運動のオルタナティブ論定の文脈に関連づけてしまうのは少しおかしいような気もする。
一番気になるのはテーヌである。ミルズは、社会科学者としてのテーヌに言及している。ググるとコトバンクにブリタニカ国際百科事典からの引用が載っている。「「中間」「環境」を意味するフランス語。芸術現象を地理的・空間的方向において外部から規定する環境的因子をさす。ミリュー説の主唱者イポリット・テーヌの実証主義的,決定論的見解によれば,ミリューは「人種」 race,「時代」 momentとともに,芸術をも含めたもろもろの文化的事象を決定する基本的精神状態をつくりだす源泉の一つである。」興味は尽きない。テキサス大学のミルズの資料庫に行く人がいたら、いずれノートなども発掘して論ずることになるだろう。
ミルズの場合、オルタナティブというような着想はなかったのかもしれない。しかし、知識社会学的な視点から、milieuに注目し、罠であり、可能性の根拠でもあると考えたのではないか、と思われるのである。このへんはいずれまた考えてみたいとは思うのであるが。古典的な社会科学の伝統は、文学とも交錯しながら、歴史的な構造を持ち、心理学的な根を持つ人間社会の重要な側面に着目していた。さまざまな政治的なオルタナティブを根源的に批判する社会学的想像力のキーワードとしてこのことばはあるのだろうと思った。ミルズの知は、両義的なものを知識社会学的に類型化する知ではないか、というのが翻訳において基本となった仮説である。
そんなこともあり、ミリューと訳すことは回避した方がよいのではないか、と提案した。編集者が提案した訳語は「生活圏」である。おそらくは学生時代からあたためていた訳語だと思う。いろいろな意味でドンズバではないかということで、これで落ち着くことになった。
『社会学的想像力』は、最初の一文読んだだけで、ダメチェッカーを発動する読み手もけっこう多いと思う。罠に落ちないための想像力ってなんだよ、みたいに.もちろんいろいろな時代的な制約はあるし、ミルズ自身のクセのある書き方、アバウトなところ、見栄や気合い、あととんでもなく如才ないところなども手伝って、「使えない」ということになるのだろう。しかし、「使えるものを読み取る」ことばかりが学説研究でもないと、石田忠先生はおっしゃっていた。
はじめて読んだ1970年代は、「虚偽意識と想像力」、「疎外された人間」などということばを想起して、ダメの烙印を押すようなことはなかった。むしろサルトルや竹内芳郎の想像力論などと照らしあわせ、ハンガリー動乱やプラハの春、あるいは人間的な主体の問題を<人間>と<>で括るヒバクシャ研究、水俣の運動などの議論が研究会やゼミでとりあげられたりした。
どうもコミュニケーションや注意力に難があると申しますか、マイワールドのなかを話があっちいったり、こっちいったりするので、論理的思考に向いていないので、ブログに適当に書き散らすか、と思っている次第です。ノートなんか下手に書くと売れなくなると思いますが、一応この機会に書いておきたいことはいろいろありますのでご海容下さい。
ぐちゃぐちゃ訳注つけたかったんすよ。意訳もしたかったし。でも、編集者のT氏と中村に羽交い締めにされて止められたの。
曰く。なぜ訳すか、そこに原文があるから。(訳文を本文無視して)崩したい、でも原文にそう書いてあるんだから。そういうのは、解説でやることでしょう。等々、経験値の高い二人にゆわれると逆らえないッスよ、それは。折れ英語できないしね。でまあ、言い足りなかったことなんかをこの際ぶちまけてみようかと言うことで、はじめてみることにしたわけす。