阿部謹也追悼@石牟礼道子

 阿部謹也が逝ったことは、各紙で報道されている。享年71。大学管理職の激務は、想像もつかないくらいに身体を疲弊させるのだろうか。私の在学中はまだTKUの先生で、非常勤でやっていた講義では、後に訳された――つーか授業やりながら翻訳やっていたふしはあるのだが――「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」などをテキストにスカトロジィの話に興じたりあやしびっちなおっさんだと思っていた。私が入院後に社会史の旗手として赴任され、たなかけつへこと双璧の看板教員だった。私たちは性格がねじ曲がった大学院生だったので、小樽時代は飲んだくれていたとか、中世史の大著の翻訳をシビアに批判したのはなんかあんじゃないかとか、尊敬してたまるかとばかりに、ろくでもないことを言っていたが、骨太な視点と厳格な史料研究に敬意を持たなかったと言ったらうそになる。
 直接話したのは一度だけ。岡山に赴任したあとのことである。岡山大学に行ったことがあるというので、え?と思ったら、教育学部障碍者教育の講座に集中でこられたことがあるという。すごい呼び方だが、気さくに来られたみたいだった。なぜなら、岡山駅まで迎えに行った担当の先生が数十分も遅刻して、「先生はそのくらいは遅れてくるはずだと思った」などと言われたことを、さも愉快そうに語っていた。馬路愉快そうに話していることに、正直に言って敬意を覚えた。
 いろんな追悼文が出ているのだが、『「世間」への旅―西洋中世から日本社会へ』で一緒に仕事をしている石牟礼道子が書かないものかと思っていたが、出てこない。東京に帰ったら読書新聞でも見てみようかと思ったら、集中最終日の12日、講師室で『山陽新聞』朝刊を読んでいたら、石牟礼道子の追悼文が出ていた(21面)。共同配信だろうが、地方紙に書いたのは、意図的なことなのか、たまたまなのかと興味を持ち、早速通読した。読書会で『中世の窓から』を読んでいて、熊本に来てくれと言ったら、来てくれたというのが最初の出会いらしい。まずは、「民衆的なもの」について、ざっくり語っている。

 中世ドイツに残る子どもさらいの伝説「ハーメルンの笛吹き男」の背景について、先生が指摘された「民衆の感受性」に私は普遍性を感じました。百三十人もの子どもが行方不明になって帰ってこないという恐ろしい出来事が、どういうふうに伝説として残っていったのか、という疑問について、民衆による「感受性の共同参加」があるというご指摘でした。民衆は分析不可能なことを伝説にして残すのであり、それは普遍的なことなのだと受け取りました。

 「民衆」を、たとえば「生活世界的なもの」「人工言語的なもの」という系列の議論に重ねて理解することは容易であるし、「伝説」の「分析不可能」を云々する言説もよくみかける。その言説が、陳腐なものでないためには、たとえば「神は細部に宿る」であるとか、あるいは「ミニマモラリア」という言説を足場にする必要があると思っていたし、個別に執着してみることが必要ではないかと思っていたし、そんな方向からミルズも読んできた。だからここに「普遍的」と言われているのをみて、ちょっとどきりとした。もしそう言っちゃっていいなら、つーか石牟礼道子がゆっているなら、悩まなくていいじゃんか、鬼の首でも取ったように開き直れるじゃん、あはははと郷ひろみみたいに笑ってやるぜ、などと思ってもみたが、もう少し考えてみないといけないだろうなどと、気持ちを抑え読み進む。石牟礼は「歴史の変わり目にある今の日本」に思考を進めている。

 今の日本は、理解不可能なくらい変わっています。このような日本の状況を何かの伝説にしてでも残さなければならない、その手がかりについて、先生はおっしゃっていたのではないかと思います。
 また、先生は「『世間』とはなにか」「『世間』への旅」などの本で、西洋の「社会」とは異なる日本的な『世間』についても考察されました。学者として学術的に考えることがすべてではなく、『世間』という考え方があるのではないか、と先生は反問しておられました。

 たしかに、「伝説」という言葉はツッと通っている。しかし、悲しみが深いのか、和太鼓が「ゆきゆきて神軍」のようにスタンビートするというか、はたまたアシッド少年のび太がギューーーンとトリップするようにというか、ワープするような気合い一閃の呪術的文章はここにはない。w「常世の海底の 妖々とひかり 凶兆の虹が 吐血している列島の上にかかるときに 浮いて漂う 死民たちの曼荼羅図絵」(「死民たちの春」より)みたいな。次の文章を読むと、石牟礼が丁寧に追悼を行っていることがわかる。阿部の用語系で、石牟礼は思考を紡いでいるのだ。「ものぐるい」の「巫女」のような作家として、作品を紡いでいるのとは異なるだろう。

 ドイツに留学されたご経験から、日本の『個人』と西洋の『個人』とは異なるのではないか。日本の明治以後のインテリは『近代的自我』を読み違えていたのではないか、とも思っていられたようでした。
 私は、外国で暮らした経験はなく、地方にしか住んでおりませんが、同じように感じておりました。日本のインテリは、考えたことを体の中の血流にそって言葉に出すのではなく、近代語に翻訳しているのではないか、と感じていたからです。

 ここまでくると、『若者文化のフィールドワーク』をヴァナキュラー論として出そうとして出せなかったこと、地方都市の市民性を巡って小谷敏氏と議論をたたかわせたことなどが思い出された。また、その昔山本哲士、青木やよい、上野千鶴子といった人々が論争を行ったことなども想起された。現在南博氏の『日本的自我』『間の研究』などを出発点として、「間」の社会学的研究を科研でおこなっている。阿部謹也の世間論は、「大家のしめくくり」のような気がして、避けていたのだが、石牟礼とのコラボなどを出発点にして、読み直してみようかと思い始めた。鶴見和子を介して、ミルズへの血路もひらけるかもしれないし。w