文化と芸術の境界

 春休みにはいつにもまして本を読んだと思う。一方で、社会学の授業の準備のために思考の触媒となるようなものをたくさん読んだ。他方で、気がつくとここ数年考え続けている「若者に文化はあるのか?」という批判的な問いかけについて考えている。講談社文芸文庫に入っている福田恆存の文芸論集所収の「私小説のために」という論考は、『サブカルチャー社会学』で提起した問題を反芻する過程で出会い、次の一文はずっと頭に突き刺さったままになっている。福田が論じているのは、知的障碍をもった児童の絵や作文を芸術としてもてはやすことである。

 甘い親が、子どもの幼稚なことばに詩人を見、特殊な才能を見る愚かさもまたここにある。すぐれた芸術は強靱にして俊鋭な境界線をもつ、といったのはブレイクである。この公理を頭において、原始芸術を、ないしはいわゆる「民芸」なるものを眺めてみるがよい。境界線とはたんなる線を意味しているのではない。それは生活との境界線である。
 特殊児童の絵や民芸は生活の才能であり、生活の悦楽であり、それゆえけっして芸術ではないのである。
・・・・
 だが、民芸が芸術に近づく唯一の道がある。都会の有閑階級の応接間を飾り、ようやくかれらの好尚に投じてくるや、素朴な農民たちは過去の遊戯的、あるいは暇潰し的制作の無意識状態から脱し、やや意識的になる。もちろんいかにして素朴の美を発揮するかという問題がかれらを動かすのではない。素朴を強要する浮薄な都会人士の嗜好にいかにして媚びるかという――芸術上のではなく――商業上、生活上の問題がかれらの心に忍びこむのである。ここでかれらは一歩芸術に近づき、同時に無限に芸術から遠ざかるのだ。
(p20-21)

福田恆存文芸論集 (講談社文芸文庫)

福田恆存文芸論集 (講談社文芸文庫)

 意識的であること、意図的であること、強靱な意志で制作すること・・・ここには、サブカルチャーが提起している問題があると同時に、社会概念の基礎的な問題が語られている。そんなことに今さら気づいたのかと言われるかもしれないが、正直言って私には
かなり眼から鱗だった。
 でもって、ちょっとウツな気分になって、グダグダしながら、本屋を物色していたら、四方田犬彦の『先生とわたし』をみつけた。小谷野敦本で再三言及されていた著者なわけだが、これもまた自伝的論考であるので、買って読むことにした。その中にあった一文にまた眼がとまった。こちらは、今まで自分が考えてきたことと重なるものである。「先生」の方法論の根底にあったという、ロシア・フォルマリズムの代表的論客の一人シクロフスキーの知見の要約である。

 高位文化が誕生するためには、低位文化の絶えざる振幅が条件である。p18

先生とわたし

先生とわたし

シクロフスキイ 規範の破壊者

シクロフスキイ 規範の破壊者

問題は当然印象批評批判、バフチン、さらにはバークなどにも連なって行く。そして、『先生とわたし』はその論脈を興味深く描いている本であるとも言える。最先端の理論社会学からすれば、社会学的なリアリズム論はぬるい、ということになろうが、ケネス・バーくが、動機の文法論だけでなく修辞論を書いており、その社会学への影響はなかなか一本化するわけにもいかないと思う・・・なんて言う奴はしゃあしゃあと、確信犯だとかひらきなおって、生活世界とシステム世界などというのかもしれないけど。ここで福田の論考をふたたび読むと面白い。そして、馬場修一先生が整理された文化論の描出力に驚くのであった。続く。