柴田元幸・高橋源一郎『小説の読み方、書き方、訳し方』withレッカ

 土7になったレッドカーペットをみはじめたら、どうも様子が変だ。若手芸人がひな壇にならんで、暴露話で大騒ぎになっている。個人的には面白かったが、土7としてはどうだったのかね。ホワイトカーペットがはじまるころには、レッドカーペットは面白いということで見始めたうちの親は、「他に変えよう」と言いだした。で、しょうがないから、テレ朝に変えたら、なんとなく普段の茶の間の雰囲気に戻った。
 制作費は下手すると100倍くらいテレ朝のほうがかかっているんじゃないかとは思ったが、w 安心してみれることはたしか。通してみないと、製作意図はわけわかめだし、高齢者というのではなく、もっと別な視聴者(中高生とか)に対して、「つかみはオッケー狙い」ならいいのかもしれない。今田耕司じゃなく、さんまちゃんだったらどうだっただろうとか、ひな壇に出川とか、土田とかいたらどうだっただろうとか、そんなことも考えたけど。
 ここ一週間ばかり、柴田元幸高橋源一郎『小説の読み方、書き方、訳し方』をくりかえし読んでいる。私にとっては、すごくためになる本だった。春休みだし、なんか書いてみようかとか、たわけたことを思いつき、実は「書き方」で購入したのだが、安易な書きたい気持ちが萎え萎えになるところが素晴らしいと思った。っていうか、まあ書ける人はぜんぜん萎え萎えにならないだろうけど。読み方も、訳し方も、書き方も、類書に比べれば、格段にハードルが高い。というか、類書と思わず、読者はプロフェッショナルの芸というものを鑑賞するだけでも、非常に面白い。

柴田さんと高橋さんの小説の読み方、書き方、訳し方

柴田さんと高橋さんの小説の読み方、書き方、訳し方

 ただし萎え萎えになったというは文学の場合である。専門の社会学のものを書くときのこと、論文の作品性みたいなことを考えるのには、非常に刺激的だった。意地でもそういわなければならないところだろう。
 最近若い人の論文を読んだり、あるいは報告を聴いたりすると、なんとなく誰に憧れて書いたものか透けてみえるような気がするときがある。それは、その作品を自分のたどってきた過去に位置づける愚劣な読みだとは思ってきたし、そのことはこの本にもあったような気もするが、それはともかく見田宗介や井上俊や作田啓一などが書くものに憧れつつ、商売柄アカデミックな枠組でものを書かなくっちゃと焦燥し、前者の未練をいじましく横溢させた論文を無理矢理後者の枠組で発表しようとしていた自分が、ろくな仕事ができないできたのは理の当然だなぁ、と再確認した。それはまた、基本的には社会学の争点、歴史などを十分に勉強できていなかったことにもよるんだろうなぁ、などとも思った。まあしかし、そう思うなら、物わかりのいい顔をしないで、無理解な意地悪な年寄りとして接するべきなのかもしれないのだが。
 そういう教訓的なこととは別に、もう一つことばの問題に純化して、小説の問題が語られているのは、ここ数年ケネス・バークを軸に研究を進めてきた見地からは、刺激的な文言がいろいろ見られた。もちろん批評理論は、そんな地点を越えて進んでいるんだろうが、過去に身を置いて学説を精査する場合にも、見通しのよい鳥瞰は必要だからである。
 中上健次大江健三郎の対比が妙に面白かったが、読後無性に読み直したくなったのは、綿矢りさブコウスキーのほうだった。両方とも引越のときに梱包したダンボールのなかで、探すのもめんどくさいので大学の購買に買いに行った。前者はともかく、後者はなぁ、と思ったら、モロあったのでワロタす。
蹴りたい背中 (河出文庫)

蹴りたい背中 (河出文庫)

町でいちばんの美女 (新潮文庫)

町でいちばんの美女 (新潮文庫)

 前に読んだときは、表紙が素敵すぎるとか、なんかチョー肉食系だよな、とか、あのときもうちょっと強く言っていればみたいなことを自己経験と重ねたり、あるいは、ブコウスキーバージョンの一寸法師は素敵すぎる件については友人たちと馬鹿話が相当できるなとか、強烈なイメージに酩酊しつつ、ろくでもないことを考えたりしていたわけだが、サクッと解説されてみると、なんか文の問題、ことばの問題のほうに目が逝くようになった。