片桐雅隆『認知社会学の構想』

 語用論的転換の次は、認知論に知覚論ということは、語用論的転換が議論になり始めた頃すでに何人かの人に言われていたし、外国の研究状況を精緻にフォローしている社会学者たちは、すでに成果を世に問い始めている。たとえば、北澤裕氏の著作、あるいは安川一のいくつかの報告ペーパーなどにそうした成果をみることができる。言語と実在の問題をめぐって、哲学的な議論をすることや、理論社会学のエッジ立ちまくりの議論をすることは、もちろん大事なことであるし、理論社会学の俊秀の多くは、そうしたことを意識しながら、研究しているんだろうと思う。こちらはいささか焼きがまわっているから、いくつもの理論的意匠のなかでゾンビのように復活してしまう実体や本質のようなものをどうにかするなんて野望はとりあえず括弧でくくって、まあいいぢゃんかと、シコシコ調査を行ったりもする。
 必要なのは、橋渡しをする人なんだがなぁ・・・と思ってみたりしていたところに、送っていただきましたのが、片桐雅隆さんの新著である。この本は、社会学の基本範疇というものをヨイショと背負いながら、社会学の新動向に立ち向かっている。いただいたばかりでめくっただけの段階で何かを言うのはなんだけれども、貴重な位置取りの本であると私は思った。
 船津衛先生が一つの研究スタイルをはじめたのだろうと記憶しているのだが、いわゆるシンボリック相互作用論という看板を一度は背負ったことのある人は、実に外国雑誌の動向などに精通し、収集、レビュー、整理を怠らない。その上に骨太な自説をなぞってゆくという名著がいろいろあるわけで、片桐さんの著作も最初の頃は、スタイル的なものにかぎっては、ちょっぴりコピーバンドちっくであったわけだけれども、アイデンティティや記憶の問題を考察し始めた頃から、潜在していた力動がこなれたことばでつむぎだされ始めた。今回の著作も、そういう意味で読みやすいし、食いつきどころを明示して、「カモン!」とファイティングポーズをとっているように見える。

片桐雅隆『認知社会学の構想』

目次

内 容
序 章 認知社会学の問い
 第1節 社会の消失と社会学の再構築
 第2節 カテゴリー論と認知社会学
 第3節 全体の概要

第1章 自己論 ― 「近代的な自己」をめぐって
 第1節 「近代的な自己」の成立
 第2節 カテゴリーによる自己の構築という視点へ
 第3節 自己のカテゴリーとしての役割
 第4節 自己の構築の相互行為への依存と歴史性

第2章 相互行為論 ― 役割カテゴリーから集合体の成員のカテゴリーへ
 第1節 自己論から相互行為論へ
 第2節 シンボリック相互行為論の認知論的な展開
 第3節 認知論から相互行為論へ ― ポジション論の知見
 第4節 役割カテゴリーから集合体の成員のカテゴリーへ
 第5節 認知社会学から見た相互行為

第3章 相互行為論・その源流 ― 認知社会学から見たミードとシュッツ
 第1節 シュッツとミードへの視点
 第2節 ミードとシンボリック相互行為論における役割論の意義
 第3節 シュッツにおける類型論
 第4節 ミードとシンボリック相互行為論における役割論の問題点
 第5節 ミードとシュッツ理論の展開可能性 ― 役割論、類型論からカテゴリー論へ

第4章 ステレオタイプ論 ― 虚偽のカテゴリーはあるのか
 第1節 ステレオタイプを問うことの意味
 第2節 ステレオタイプをどう見るか
 第3節 ステレオタイプの物象化と流動化について

第5章 集合体論 ― 自己カテゴリー化論をめぐって 
 第1節 集合体への視点 ― 概念の共有としての社会的世界
 第2節 自己カテゴリー化論の意義と限界
 第3節 自己カテゴリー化論から相互行為論へ
 第4節 カテゴリーによる集合体の形成

第6章 自己の同一性論 ― 自己物語とカテゴリー
 第1節 カテゴリーから物語へ
 第2節 過去の構築とカテゴリーの働き
 第3節 カテゴリー化による物語の書き換え
 第4節 相互に付与される物語

第7章 集合体の同一性論 ― 集合的過去とカテゴリー
 第1節 集合的過去の構築
 第2節 集合的過去の構築とカテゴリー化の働き
 第3節 現代社会における集合的過去の変容
 第4節 想起のカテゴリーの個人化

終 章 カテゴリー・自己・社会 ― 認知社会学の意義と限界
 第1節 「カテゴリー・自己・社会」という視点
 第2節 認知社会学の限界
 第3節 現代社会と認知社会学

内容

社会とは何か、自己とは何か――カテゴリー化の作用に焦点を当てつつ、自己と社会の成り立ちを根本的に問う。社会が個人化し、集団や組織など既存概念の自明性が解体しつつあるいま、社会学理論全体を鍛えなおす、認知社会学の誕生。

定価2415円(税込)2006年発行 四六判 254頁 ISBN4-7907-1203-6
http://www.sekaishisosha.co.jp/cgi-bin/search.cgi?mode=display&style=full&isbn=1203-6

 しかしですな、読書人的な観点からは、この本の一番の見所は「あとがき」なのだよ。ここで、著者はありえねぇようなギャグをかましている。わたしはしばし、我を失い呆然とし、そのあとしばらく笑い転げた。こんなことをおっしゃる人だとは思わなかった。物静かなおだやかな人がこうしたギャグをかますというのは、まったくもって驚いた。その昔、恩師が「ぼくは耳を動かせるんだ」とコンパの席で周りの数人だけに芸をして見せたのを思い出したりした。しかし、このギャグは実はこの本の鍵概念とかかわっているのだった。まさか、コード化云々という用語系の人から論争をふっかけられて、「なにせ、僕は○○だから」ととぼけてみせる謎だったりするわけないと思うが、どこかの合評会かなにかで一度くらいはかましてみて欲しいと、長年の読者としては思って見たりもする。