濱谷正晴『原爆体験−−六七四四人・生と死の証言』(岩波書店)

 出がけに郵便受けを見たら、岩波書店からの包みが入っていた。箱である。冊子小包とある。岩波から本をもらうなんて心当たりねぇし、また季節はずれの営業だこと、などと思って開封すると、濱谷正晴さんの著作だった。マンションの一階の郵便受けの前で、暫く立ったまま読みいってしまった。馬路感慨深いものがある。被爆者研究40年になるんだなぁと思った。退官とか、あるいは被爆者研究50年までは公刊せず、狙い澄ましたように出すほうが濱谷さんらしいとも思ったが、被爆者の方たちはじめご高齢のかたも多いわけで、早く出すのにこしたことはないよなぁとも思った。私は、濱谷ゼミは二年ゼミをのぞき主ゼミとして受講したことはない。ゼミや講義の教材として濱谷氏の論考やその師である石田忠氏の『反原爆』(未来社)などに触れることがあったが、ゼミでやっていた長崎調査とも一線を引いていた。だから、私ごときが訳知りガオで言えることは限られている。
 濱谷さんから教わったことは、徹底して自分のことばで考え抜くことである。上っ面の博引旁証をしてもけっして認めることはなかった。学問の流行をひけらかしても、ピンと来ないといった表情で、そのなかみを問いかけてきた。二年ゼミで、『社会学的想像力』を読んだときも、それにひっかけて知識のひけらかしや、チラリズムのような無様な真似をくり返し、よく怒られた。調査については、もっと厳しいものがあった。学問や論壇の流行で調査に来るような調査ゴロを嫌っていた。大学院進学をするときに真剣に水俣を研究しようと思って相談に行ったことになる。自分では、かなり考え抜いた結果だったが、水俣に自分の救いを求めるようなことはやめるべきだし、水俣をやったからといって絶対の安全地帯にたてるみたいな考え方は不純だし、元々の研究主題を責任もってやれというようなことを言われたのが記憶に残っている。
 そんな濱谷さんの学問は、目次を見れば明らかである。ここにならべられたようなことばでものを考えてゆきたい人には、絶対面白い本だと思う。ただし、流行の思想家や社会学者の文献の引用はない。少ないとか、そういうことではなく、まったくない。『反原爆』には、『社会学的想像力』の誠実な読解が出てくるけれども、濱谷さんが長年読みかえしてきたはずのミルズ、リンド、ウェッブなど、社会調査史関係の書物からの引用もない。目次を見ると、見田宗介の名前を思い出す人もいるだろうし、立岩真也、竹内章郎の名前を思い出す人もいるだろう。そういう著作は読んでいるかもしれないし、もしかすると読んでいないかもしれない。いずれにしても、そうした著作はリファランスとしての意味がないということはたしかだろう。あるのは、調査とかかわった被爆者、そして調査の記録との対話である。その対話をひたすらに語っている。

ジュンク堂のサイトより

原爆体験 六七四四人・死と生の証言 岩波書店
2005年06月 発行 ページ 265P サイズ 四六判  2,940円(2,800円+税)
ISBN 4-00-022742-4 C-CODE 0036 NDC 210.75

概要:

〈原爆〉と対峙する被爆者の営みを探る。 被爆60年の現在も、原爆が人間に何をもたらしたかは決して自明ではない。〈心の傷〉、〈体の傷〉、〈不安〉、・・・。多くの苦しみを背負って被爆者はどう生きてきたか。反原爆の思想とはどんな特質を有していたか。13000人分の「原爆被害者調査」(日本被団協、1985年)を手がかりにして被爆者の生の軌跡を解明した渾身の労作。

目次:

はじめに
第一部「あの日」
第一章<心の傷>
1「これが人間か!?」
2「あの日」の証言
3<子ども・女・年寄り>−−絶望の対象
4極限状況下の<母と子>
5<無感動>
6<心の傷>
第二部「それから」
第二章<体の傷>
1<持続する史>−−原爆死没者の推移
2<直接の死>
3<その後の死>
4原爆の傷害作用−−外傷・熱傷および急性放射線傷害
5その後の健康状態
6複合する健康被害
7<体の傷>がもたらした苦しみ
8<体の傷>−−「病気がちになったこと」
第三章<不安>
被爆者であるために<不安>なこと
被爆者はなぜ、<不安>を抱くのか?−−<体の傷>との関係を中心に
3<心の傷>は不安をつのらせる
4<生きる苦しみと不安に満ちた生>
第四章<原爆>にあらがう
1<生きる意欲>・<生きる意味>の喪失
2“自死”−−<生きる意味喪失>の極限
3苦しみが重なるとき
4<生きる支え>・<生きる糧>
5原爆被害者の層化−−総括表が語りかけること
6死者に思いを馳せ、仲間とともに歩む
第五章 戦なき世を−−むすびに代えて
1原爆被害の<反人間性>を問う
2「助けず逃げた」−−罪の意識が物語るもの
3原爆体験の全体像を再構成する−−データベース
4「愛想」と「沈黙」を強いる社会をのりこえる
おわりに

 本書で、「調査データ」「データベース」「データ」などのことばが使ってあることは、私にとりかなりびっくりしたことである。「サンプル」などの調査用語を嫌った濱谷さんが、この語彙を選択するのには、それなりの議論と決断があったはずだからである。「後世に残るのは、記述ではなく統計表である」と石田忠先生のことばが書いてあったことが、非常に印象的だった。このことばを「言い切った」と濱谷さんは書いている。議論に議論を重ねたのであろうことは、容易に想像された。いずれにしてもその結果として、濱谷さんは変わったのだなぁと感慨深かった。質的データー解析のある程度標準化された解析が必要だとする後藤隆氏や私たちと、濱谷さんがシビアな議論を重ねたことも懐かしい。いずれにしても、学会動向などクソくらえな被爆者への徹底した内在は、様々な議論を生むだろう。しかし、40年かけた対話がこうしたかたちで結実したことの意義だけは、認められるべきであると思われる。
 こう書くと非常に怖くてシビアな人と思うかもしれない。しかし、そんなことはない。私は、彼の学部二年ゼミの最初の教え子である。若いころのいろいろなずっこけも知っている。富山から東京に出てきてはじめて餃子を食ったとか、東京でスパゲティを食べたときタバスコをケチャップと同じものと理解してでないでないと言いつつしこたまかけてものすごい味の食い物にしてしかもそれを意地で食ったとか、いろいろなことを、濱谷さんのサークルであるオーケストラの後輩から聞いた。また、諫早長崎豪雨被害の時に、得意のカラオケで「長崎は今日も雨だった」を歌いどひんしゅくだったという話も聞いた。これらは噂なのだけど、合宿の昼休みに五目並べをして私が40連勝くらいしたあとの午後のゼミで、報告がなってない、昼休みにちゃんとやれとか、悔し紛れに言ったので、みんなで嗤ったら、「せえ!」とか怒っていたのもなつかしい。
 しかしともかく、今どきに珍しい一徹さで物事を考え抜き、自分のことばにして、本を書いたことには心から表敬したい。学問の競争が矮小化して、こういう力作を書くことができなくなっているのではないかとふと思った。濱谷さんは、私が岡山に就職する前に、それまでに自分が書いた論文、ノート、草稿などを部分厚いファイルに綴じてくれた。そんな就職祝いをくれた師に恵まれたことを、ほんとうに幸いに思う。