南博『記憶術』

 大学祭があると、授業は四連休ということになる。最近忙しかったので、土曜日の午前中はうだうだしながら、のんびりすごした。本をザッピングしながら、テレビをザッピングし、テレビに飽きるとビデオを見、でもって携帯の詰め碁サイトの詰め碁を解いたりしているうちに、先崎学『浮いたり沈んだり』の「記憶力」のところで、眼がとまった。先崎八段は、記憶力が弱いというのである。将棋は指した後ならべなおせて初段、一ヶ月なら二段、プロはぜってー忘れないとか教わった記憶があるのだが、先崎氏は、まあ二〜三日「覚えている程度」というので、かなりびっくりした。日付つきですべて覚えている人だとかもいるらしい。眼がとまったのは、神谷広志七段の覚え方で、競馬好きな神谷七段はそれは天皇賞で○○が勝った・・・と、競馬を記憶の引き出しにしているというのだ。
 これはいわゆる連想記憶法というやつだろう。中学のころ、南博『記憶術−−心理学が発見した20のルール』(カッパブックス)で読んだ。無意味なものを記憶する場合、身体のいろんな部位(鼻とか口とか肩とか・・・)にそことの連想がきくかたちで無意味なものを貼り付けてゆき、身体の部位を記憶の引き出しにして・・・などと書いてあった。「これだ!!」と私はそのとき思った。当時私は、自宅で勉強できなくて苦しんでいた。ともかく早朝から深夜までテレビがつけっぱなしなのである。二部屋に六人が住んでいた。ばあさまは、いわゆるひとつの「痴呆老人」。からだはピンピンしているから、勉強していても横にきて、オシシのマネをして踊ったりしている。ぢいさまは、職人の孫が勉強なんかしてるんじゃねぇと言い、わざとテレビのボリュームをでかくする。うるせぇというと、「耳が悪くってねぇ」などと憎まれ口をききやがる。勉強して欲しいはずの両親も、コント55号とかみてぎゃはははと笑っている。
 これをのりきるには、朝型にして朝学校で勉強するだとか、トイレを勉強場所にするとか、夜型にしてみんなが寝ているとき勉強するとかいろいろな工夫があったけど、南氏の本を読み、テレビを一日中みていやがる椰子らの会話の一つ一つ、テレビ番組の筋立て、その他諸々を記憶の引き出しにすることを思いついた。けっこう効果はあったと想う。一方で頭がザッピング脳になったと思う。テレビと勉強のザッピングしていたことになるから。他方で、意外なまでに集中力がついた。大学に入ってからは寮だったし、けっこう役に立ったと思う。しかし、高校に行って図書館の自習室を知ってから、成績が若干上がったのは否定できない。
 連想記憶術とはまた違うのかもしれないが、連想を意味の構造化というか、意味の鎖みたいなものにひっかけたカンジの本に、長崎玄弥『奇跡の英単語』がある。要するに、定着しやすい記憶の鎖をつくってゆくということだろう。この辺まで来ると、結局人間がオーソドックスに身につけるものを、凝縮して一種のノウハウ化したというのに近いのではないかと思う。英作文の本なんかで、選りすぐられた暗記用の文章がまとめられているのも、読書を通して自然に身につけるようなものを、濃縮したってカンジなんだろうし。
 しかし、入試の監督なんかしていると、教科書に特殊なラインマカーみたいなので線を引き、赤いプレートを上にのせて、穴埋め問題みたいにして、直前の復習をしているんだけど、あのやり方は能率的なんだろうか。あんなことするくらいなら、太字の用語とかの方だけ、紙に書き出して、それをみながら教科書の全文を言う方が楽じゃないのかな。お経みたいに暗唱するんじゃなく、自分なりにくみ変わったらもっといい気がする。なんか受験勉強って、非本質的なゲームを作り出し、無駄な努力に時間を浪費することが多いと思う。私は大学院に入るまで、赤い万年筆で重要な用語を赤く塗りつぶすことで記憶しようとした時期がある。正直これは塗り絵でしかなかった。
 ゼミのレジュメなんかもそうなんだよねぇ。最初は、テキスト首っ引きで抜書きして、教科書を読み上げるような報告をしていたりする。レジュメの骨組みは、テキストを見ないでつくってほしいといってもなかなかしてくれないし。。。授業もそうだよね。板書と重要そうな説明だけ書いている。授業のまとまりごと、15分ひとまとまりくらいで板書筆記タイムを入れ、そこでメモをとる以外は筆記具を持たないで聞け、筆記タイムに質問も受けるからと言って授業したこともあるけど、ぜってー筆記しながら聞く椰子がでてくる。レジュメにしても、ノートにしても、全然違うゲームになっちゃっていると思うんだけどね。まあ教えている方も、ついつい雑談に逃げがちで、厳しく叱れない弱みもあるんだけど。