卒論の書き方をめぐって

 弟夫妻と甥が来て、両親と墓参りに行く。都合が会わないと行かないことも多く、今回は久しぶりである。昼飯をいっしょに食って解散。横浜野毛に帰って、いつもどおり有隣堂書店ほかを巡回。パチンコやで、CRヒデキをやってみたが、HIROMI郷のほうが数段できがいいと思う。イラストだけで写真なし、しかもイラストが似てない。音楽もアクションも、今ひとつであった。まあすったからやつあたりで言うわけだけど。有隣堂では、西洋史の浜林正夫氏の書いた小林多喜二論と、野坂昭如氏の書いた文壇論を購入した。前者は、社会科学の見地から小林を考察したものであるが、非常に面白かった。後者は、非常に面白いことが書いてあるのだが、この作品にかぎっては独特な文体がうるさい気がした。まあしかし、泉鏡花賞もとっているわけだし、世評は高いのだと思う。昨日の研究会で報告者がおすすめと言っていた、『介護入門』も購入。ざっと読んだが、ジャンキーと介護という作為と、最初の写真にちょっと反発して発売直後買わなかったことは、間違いだったと反省した。
 ブログを読んでいる知り合いから、「けど大杉」とゆわれた。たしかにそうだ。なんでだろう。昔なら、思考が両義的だからだとか、対立意見への思いやりだとか、弁証法だとか、いちびったところだけどw、なんかむしろ最近の若い人たちと話していて、その言葉のはこびをまねしているうちに、こうなった気がする。耳で覚えた会話のリズムは、書く場合にも自然に出てくる。多胡輝『深層言語術』(ごまぶっくす)には、「しかし」など逆説を多用する人は、人を煙に巻こうとしているという話があって、例として、昔の東京都知事スマイル美濃部亮吉氏の例があげられていた。あっちゃこっちゃ話が言っているうちに、わけわかめになる。もちろん達意の文章を書くには、これではいけないのだと、学生には教えている。
 逆説の話で、思い出すのは清水幾太郎氏の『論文の書き方』(岩波新書)である。伊丹敬之『創造的論文の書き方』から、本多勝一『日本語の作文技術』(朝日新聞)、山内志朗『ギリギリ合格の論文マニュアル』(平凡社新書)まで、今はそれぞれのレベルでのいい本がそろっているし、あまり読む人もいないのだと思うけど、以前は誰でも読む本の一冊だったと思う。清水の本で、一番印象に残っているのは、逆説の接続助詞以外の「が」を使うなという教訓である。「が」でつなぐと、いくらでも文章がつながるがw、わけわかめというか、なんかバカっぽくなるんじゃないかと思う。まあ「けど」もいっしょで、「・・・だけどぉ〜、・・・だけどぉ〜、・・・チョーむかつかない?それってなくない?」みたいなカンジに話が進行してしまう。それじゃ論文は書けねぇわなぁ。
 で、「卒論、馬路やばくね?」とかゆうやつらには、『ギリギリ』君をすすめることになる。これは、「ちがくね?」「おかしくね?」「ちょーむかつく?」みたいな表現をどのような論文の言葉に変えて行くかなど、実に現実的かつ、きれい事でない知恵が詰まっている。くだけた表現や例を使うことで、学生がやる気を出して身につけるとは、私は思わない。むしろ、「型」のようなものを示して、反復訓練するようにすると、やる気が出る傾向があると思う。テクニック、術の類を嫌う人も多いけど、最低でも橋渡しの意味はあるんじゃないかと思う。論文の構成から、文章の書き方まで、ギリギリ君はかゆいところに手が届くようにして、この型を明示している。
 事実と意見など科学的な文章の書き方を身につけるためには、『理科系の作文技術』の著者でもある木下是雄『レポートの組み立て方』(ちくま学芸文庫)すごくいいと思っている。30年位前に『物理の散歩道』をつくったロゲルギストという集団がいて、日本のブルバキってこともないんだろうけど、高校の先生とかにもヲタがいて、しきりに薦められた。ひとつの頭イイってスタイルを提示したと言えると思う。その一人が書いたというと理系の本かと思いきや、そうでもない。文系用に書き下ろしたものになっている。
 呉智英にチホーとバカ扱いされた『知的生活の方法』から、H.ベッカーの論文論とかまで、方法論の本をたくさん読んだけど、結局言いたいことを伝えるのにもっとも効率的かつ効果的に書くにはどうしたらイイかという一点にエネルギーが傾注されているかどうかがポイントだと言うことに尽きると思う。どうしても人間「スケベ心」が出る。たとえば、どうだ物知りだろ、どうだたくさん書いただろ、どうだ英語まで読んだんだぞ、どうだすごい図式だろ、どうだいい着想だろ、どうだ美しい文章だろ・・・ナドナド、「言いたいこと」を伝える以外の要素に陶酔するのは人間の性に近い。近親憎悪もあって、読み手はそういうところに厳しい。陶酔した文章は、いやみな文章になるし、またわかりにくくなる。もちろんだらしない無自覚な陶酔も、ものすげぇ才気が横溢しているとか、あるいは自覚的に作品性が打ち出せているとか、そういうことができればすごいにしても、そうじゃないと無残なことになる。多くの場合、何年と言わず、三日もたてば穴があったら入りたくなるんじゃないだろうか。
 昔、大学院受験を志した人たちのなかで、できるという評判の人が試験に受からないことがよくあった。それは、わたしの母校はあまり勉強しないで、酒ばかり飲んでいるやつが多く、ちょっと本とか読んでいると、すげぇとかちやほやされてしまう。自分は出来るのかもとか、いい気になって、人名や書名をシュールに並べ立てると、歌舞伎の「キメ」みたいになって、みんなすごいすごいと言うし、もちろん痛さを自覚していないから、どーしようもないの。逆に、バリバリのマルクス主義で、運動とかやっている椰子なんかは、あまり本を読んでいないけど、言いたいことははっきりしているから、バシッとわかりやすい文章を書けて、受かっちゃったりした。じゃあ、おまえはブログで何が言いたいかと問われると返す言葉もないのだが。