投稿マニアの老人について−−作品性としての「情」

 うちの父親はバリバリの婿養子である。左官職人だった祖父が、左官の経験がある父を、食糧難と婿不足の時代に「胃袋攻撃」で篭絡したのではないかと思っている。もっともきつい修行についてゆけず、お試し修行の一週間ばかりでもうだめぽとなり、左官は断念し、交番勤務の警察官を定年まで続けた。結婚式の写真を見ると笑ってしまう。こわもての警察官の怖い顔が、緊張で目がすわってしまっている。『じゃりん子ちえ』のテツが、おかあはんとあってコチコチになっている図と似ているが、もっとすさまじい。
 小学校しか出ていない父は、階級社会の警察で、辛酸を舐め続けて、退職までの時を送った。退職後の楽しみは投稿で、いろんなものに書いたものを投稿して、いっぱしの投稿マニアである。退職後にワープロをマスターし、さらに80歳近くなってパソコンをマスターした気迫には圧倒される。自分史や思い出、自伝的な創作の類は、そこそこ好調なのだが、最近は何を考えているのかわからないけど、漫画の原作まで投稿しだした。ヤンジャンだから笑うしかない。戦後の闇市、横浜の繁華街をパトロールしてみたことなどを、街の記録、歴史の記録として、ユーモア小説風にまとめたものをなんとか世に出したいらしいのだが、調べこみがきつすぎて、ディティールが五月蝿く、作品性をそこなっている。いっそ、歴史の記録として、発表すればいいと思うのだが、なかなか上手く行かないようだ。父がもう少しキャリアがあるなら、有隣堂の出版部あたりが、本にしてくれそうなものだが、このままでは郷土の貴重な記録がワープロのファイルとして埋もれてしまうかもしれない。
 赤貧の家庭の末っ子であった父親の学歴は小学校卒だけなのだけれども、映画をものすごくたくさん見ている。東映の時代劇を中心として、欧米のものも見ている。そしてその原作となった本なども、読んだようだ。その蓄積によって、現在文章を書いている。構成力や言語感覚、イメージする力などは、正直私などでは太刀打ちできないほどの才能を感じる。その才能を封印することで、父親はにぎやかな家族と、下町のあたたかい人間関係を得て、明快な幸福の定義によって生き、楽しい老後を送っている。*1
 その父親に、この一作と言えるのは何かときくと、阪妻の『人生劇場』であるという。赤貧や戦後の混乱を経験したなかで、「情」という作品性を、世の中の残虐から目をそらさず、文章化したときに、父親の筆は冴える気がする。最近九州のほうでやっている文化祭*2の「小さな自分史」で選に入ったという作品を今日見せてもらったが、姉を描いた作品は、「情」という作品性を結晶化したものであるように思われた。赤貧の残虐と、人の温かさが描かれている。もちろん親だからさ、贔屓目ありまくりなんで、冷静に見るとさほどよくないのかもしれないけどね。
 闇市トロールのまぬけ警察官の話だって、いろんなところでみせても、出来不出来が激しく、あまり相手にされない。朝日新聞の後輩が平岡正明氏に見せようかと言ってくれたが、父親は「悪いしいいよ。だいいち俺は下級だけど警察官だったからさ」と一言言った。このあきらめのよさはすさまじいと思う。

*1:痴呆の両親の面倒をみた母親も大同小異である。もちろんそこには家父長制的な問題も横たわっているのであるが。

*2:とびうめ国文祭。