高野光平/難波功士 編『テレビ・コマーシャルの考古学 ― 昭和30年代のメディアと文化』

鴉

 キューピーあえるパスタソースのCM、ヘインツ・サシャはキグルミにもまして、エッジたちまくりでぶっ飛んだ。なんかつくりものの人形のように踊る。白州正子が、数歳の子供が舞う能の話を書いていたのを思いだした。そこには、よちよち歩きながらも、いかにも楽しげな舞があり、そこに能の神髄はあるのかもしれないということを白州は言っている。若干違うが、サシャの動きは、狂気や寓意やなんやかやという小理屈を吹き飛ばしてしまうかんじだ。
 先日赤坂サカスにある某大手広告会社の社食で旧知と30年ぶりに旧交をあたためた。医療行政、雑誌編集、広告とそれぞれに積み重ねてきた仕事ぶりがひしひしと伝わってきて、刺激になった。そのなかのひとり、佐藤達郎氏(博報堂DYメディアパートナーズ)が昨日テレビ出演していた。神田ロム日本初司会っていうふれこみの、「マジで!世界(秘)オモシロCM 全部見せます!」という番組で、カンヌでの審査員の体験なども生かして、コメントされていた。近々著作も出されるということで、平生青学の大学院などで講じられてきた学識に基づき、かなり内容的な解説も加えたらしいが、カットされたらしい。それをテレビメディアの問題として柔軟に受けとめ、今後の方針的なものを呟いておられたフレクシブルな姿勢に敬服した。この方向で活躍していかれるのだろうし、どこかの大学で教鞭をとられるようになるのだと思う。
http://www.tv-asahi.co.jp/worldcm/
 世界のCMの現場に精通された佐藤氏の識見を目の当たりにして、適当にあちこち食い散らかしてきた自分の学問を恥ずかしく思った。と同時に、大学の将来像などについて考え、大学院育ちの私たちはどうなっちゃうんだろうと、思ったりもした。そんな折に、難波さんから本をいただいた。いつも本をいただいている。まったく返せないままでいる。今度論文の抜き刷りくらいはまとめて送らないといけないと思っているのだが、ともかく申し訳なく思うと同時に、心よりお礼申し上げたい。
 難波さんは、上記の近代的な社屋と美味しい社食の大手広告会社の勤務経験があり、大学院にスライドして、教員になった方である。経歴にふさわしい感覚が具現された筆致で、しかし日本史出身ということもあり、山本武利先生をもうーんと唸らしてしまうんではないかというほどのリジッドな論を展開される先生であることは、今更言うまでもないだろう。今回の著作も、そういった著作になっている。

テレビ・コマーシャルの考古学―昭和30年代のメディアと文化―

テレビ・コマーシャルの考古学―昭和30年代のメディアと文化―

内容

 これまで眠っていた九千本余の初期CMを掘り起こし、記憶ではなく映像資料から戦後社会のリアリティに迫る。CM論に新たな展開をもたらすと同時に、戦後日本文化の歴史と現在を見直し、ステレオタイプな昭和イメージに一石を投じる一冊。

目次

第1章 昭和三〇年代、CMとは何だったか(高野光平)
  ― 発掘されたプロトタイプを読む
第2章 CM言語の「断層」、一九五〇/六〇(辻 大介)
  ― 広告としての自律化と受け手の内部化
第3章 一九五〇年代のテレビCMにおける音楽(小川博司
第4章 昭和三〇年代のCMアニメーション制作(大橋雅央)
  ― CMアニメーションに見る関西アニメーション産業の姿
第5章 昭和三〇年代におけるファッションとテレビCM(井上雅人)
第6章 CM表現のパターン化と〈専業主婦〉オーディエンスの構築(石田佐恵子)
  ― 「洗濯という営み」を中心に
第7章 あの時君は若かった?(難波功士
  ― 昭和三〇年代CMに見る若者像
第8章 海外・沖縄向けCMと〈日本〉(山田奨治
  ― 昭和三〇〜四〇年代作品の分析
結語 放送史の余白から(難波功士
コラム1 「工場見学」するCM (辻 大介)
コラム2 〈近代人〉のためのクスリ (石田佐恵子)
コラム3 業務用製品・工業製品のCM (高野光平)
コラム4 インスタント・コーヒーCMの語り (梁 仁實)
コラム5 ガスCMにみる「マイホーム」の表象 (村瀬敬子)
コラム6 失われた文化 (難波功士
コラム7 CMではない映像たち (高野光平)

 「これまで眠っていた九千本余の初期CMを掘り起こし、記憶ではなく映像資料から戦後社会のリアリティに迫る」という。恐ろしい研究である。ついにそんなものまで出ちゃったかという感じ。ちょっと前までは、コミュニケーション論の理屈をかじった人が、学問的な理屈に照らして、論を展開すれば、メディア論になったり、広告論になったりしていた気がする。大宅壮一文庫かなんかを精査すれば、かなりの研究になっていた。
 ところがメディア論、マスコミ論は、ここ30年で格段の専門化が進んでいる。ちょっと調べて筆先でものを言う、という次元を超えて、主に英米圏のマスコミ論、文化論を消化紹介し、他方で、一次史料を精査したアカデミックな研究が進行し、専門分化が進んでいる。そこに現場との交流が加わり、食い散らかしのシロウトが口を挟めるものではなくなってきている。
 そのなかで広告だけは、史料がねぇ、ってことで、腕一本で勝負勝負みたいなところはあったわけだけど、この本は掘り起こしちゃったわけですよ。しかも九千本あまりを。ガチ鬼だと思います。しかも時代を区切っていて、視点も明確である。すごい刺激にはなった。また大学の学問というものに対する私の自信のなさに、発破をかけられた気がして、勇気づけられました。ともかくありがとうございました。