豊泉周治『若者のための社会学』

EXPOSED

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 長谷・奥村編の『コミュニケーションの社会学』(有斐閣)をゼミテキストにしている。奥村さんの社会学テキストの読みほどきかたに感嘆するものがあり、その辺の妙味を学生に伝えたいという気持ちになったからである。感嘆したというのは、たとえばゴフマンの『アサイラム』に出てくる医者が来るとわざと悪くなってみせる精神病の患者さんについての読みなどである。ポストモダン全盛期は、はこれはやらせ、出来レースなどとして読まれてきた。それを「生きづらさ」を抱えた人間の問題として捉え、さらに社会学の古典的な学説と照らし合わせ、自由に生きることと儀式・儀礼という読みを紡ぎ出す。そして、精神病院でプライバシーも何もかも剥奪された人間の自由について洞察する。同様の観点で、討論と自由、パラドックスと自由などを読み込んで行く。
 こうした見事なテキスト構成を読みながら、先輩の豊泉周治さんが、『アーレントマルクス』をくださったときに、同じく先輩の竹内章郎さんがアーレントについて、跋扈する新自由主義に対して新福祉国家論を模索する自分には肯定的に捉えるべきところはなにもない,というようなシビアな批判から論を起こしているのを思い出した。竹内さんの立論は、意図的にそのような容赦ない物言いになっていて、これもまた味わい深い立論となっている。竹内さんは、「個」を云々する議論に対し、社会変革論が気遣いをしてきたことでしなくてもいい無駄を重ねたということが言いたいのだと思うし、逆にそこから一つの争点を浮かび上がらせるものとして、批判対象を評価するのだと思う。
 もちろん二つの問題は別の問題だとも言える。悪戯な空中戦は避けて、分業をすべきだとも考える。しかし、争点を構成する問題系も,それはそれで興味深い。そういうときに、豊泉さんの存在は、非常に貴重である。どちらの側からも味読に値する端正が議論を,着実に提示して、けっしてぶれることのない人であり、ごまかしには厳しい怖い先輩でもあるからだ。たとえ恩師であっても納得するまで議論をする。おなじゼミに私が入る前の年に、合宿で先生と何時間も議論を続けたという話は噂で聞いただけだが、思い出すたびに身が引き締まる。
 今、ここの格差社会と言われる問題状況において、ハーバマスについて一応の研究をまとめられ,社会学会でも一定の定評を得ている豊泉さんが、今日の問題状況において、どんな議論をするのかはずっと注目してきた。そうしたところで、本をいただいた。恐縮するとともに、大きな期待を持ってページをめくった。

若者のための社会学―希望の足場をかける

若者のための社会学―希望の足場をかける

内容

今こそ「希望」の足場づくりを。
「若者を見殺しにする国」のもとで、苦悩しつつ懸命に生きる若者たち。
その深刻化する若者のトランジッション(学校から仕事への移行)とアイデンティティの危機の根源に分け入りながら、新たな時代と「若者に希望のある社会」への転換の道すじを提示した待望の書き下ろし。

目次より

第1章 「若者の現在」への視点―イノセンスとノン・モラル(若者のノン・モラル?;若者のイノセンス ほか)
第2章 若者の「生きづらさ」/親密性の構造転換―「動物化」ではなく(親密圏の孤独;親密性の構造転換 ほか)
第3章 幸福の現実主義―若者のコンサマトリー化(「多幸な」若者たち―「今、とても幸せ」;若者のコンサマトリー化―「心の時代」を生き抜く ほか)
第4章 若者のトランジッション―ニート言説を超えて(「ニート」という言説;学校から仕事への移行―若者のトランジッションという課題 ほか)
第5章 社会学とナラティヴ・プラクティス―「希望」の足場づくり(希望のない社会?;ナラティヴ・プラクティス―「語り直し」の政治学 ほか)

 時間がなくて十分に読めてはいないが、ずっと期待していた議論、つまり上記争点をめぐる議論が本格的に論じられた本であるように思った。おそらく竹内さんたちが感じるであろう社会学に対する抵抗感を熟知しながら、重要な問題を丁寧に整理している。奇をてらうところもない。一番目を惹いたのは、あとがきで理論社会学の問題として若者論を捉えているくだりである。こうした延長線上にナラティブ論なども位置づけられていることは、精神病理学的にもなかなか意味深長である。

 ハーバーマスアーレントという哲学系の理論を主な研究対象としてきた私にとって,理論社会学の課題は,現代という時代と社会を「過去と未来の間」の裂け目(アーレント)に立って追求し、そうすることによって未来への足場をかけることである(と、今は言うことができる)。だからこそ、過去と未来との間でアイデンティティの危機にさらされ、その危機を乗り越えなければならない若者という存在は、私の理解によれば,理論社会学にとってもっtも中核的な問題なのである。(p.216)

 残念だったのは,コンサマトリー化の概念について、さらっと流されていることである。これはもちろん書物の性格からすれば当然のことである。しかし、パーソンズを引用している以上、周辺の文献は確実に読み込んでる人だし、ウェーバーで学会誌に論文を書いている豊泉さんが、マルクスヘーゲルの知識に基づき,どんな議論をするのか、聞いてみたい気になった。他方で、中西新太郎さんと共著のようなかたちで、理論的な分厚いコンサマトリー論を書いてくれないモンだろうか、と思った。