シラバス

ベリッシマ

ベリッシマ

 大学評価というのがさかんである。10年ちょっと前までは、定型化されたシラバスなんてアフォらしい、と言って憚らなかった。1年の最初に授業のことなんか決められるわけねぇだろ、とか言う人もいるし、話しているうちに考えがまとまってくる、という私みたいなのもいる。さらには、外国の大学でシラバスをみてきた人などは、簡略化した定型的なシラバスなんてシラバスとは言わない、などとおっしゃっている。それ自体が、半年分のプリントみたいな体裁なものもあるらしい。現在のは、教案とルールが書いてあるのが、基本である。
 で、これを書かないと勤め先がえらいさんから助言とか勧告とかを受けてしまったりするらしい。そうすると僕たちにとってかなりまずい事態なのだ。で、評価法とか、評価基準とか、年間スケジュールとか、キチッとたてて、出すことになる。うちの大学の場合は、担当の人々が、途中で思考が展開して、創造的に展開するような場合は、随時シラバスのスケジュールを手直しできるようなシステムを確立してくださったので、その点は問題ない。
 大学改革として言われているもののなかで、シラバスはほんの一端だ。同一授業で担当者が違う場合もテキストや試験を同じにするとか、同じ授業を週に複数回開講して、ビシッと教え込むとか、いろんなことが次々に行われてゆく予感がある。なんか日々の出来事と絡めながら、自分が打ちこんでいる学問の話をして、学生たちと読んだ本とかの話をして、自分の作品を練り上げてゆく、という講義をしたくて職業選択した者としては、なんともにんともである。
 20年前なら、森毅先生がご健在なら、チィチィパッパなんて、やってられるかい、と、啖呵の一つも斬ってくれただろう、だから自分も言えたら言いたいなぁ、などと思っていた。私はOECDかなんかが調査をして、Yセンセが本にした日本社会科学批判なんかについては、けっこう参考にしてきたし、その路線の大学改革論というのもけっこうジツは共感しないこともない。でも、なんでもかんでもアメリカっぽくすればいいってモンじゃないだろう、と思ってきた。っぽく、というのが問題で、アメリカみたいになれば、それはそれでいいんだとは思うんだけど。


 しかしである。最近ちょっと考え方が変わってきた。


 同僚の先生たちと最近の学生について話していた。たとえばゼミ決め。昔は、クジが一番公平と思われていた。面接などしようモンなら、顔セレと茶化されかねなかった。しかし、今は、クジは不公平だと言われるようだ。面接とか、試験とか、成績とか、志望書とか、そういうのでみてもらわないと困るというのである。
 また、シラバスに評価基準コメントペーパー20%などと書いてあると、必死になってコメントを書く学生が多い。某大学などでは、授業後十分以上もかけて書いている人がけっこういる。そして、書いたあとの会話に耳を傾けていると、「すごい書いてるジャン」とか、中等教育の定期試験なみの真剣さで刺激しあっている。
 で、このへんをグダグダにしてしまうと、非常に強いクレームが出てくる。まだ、昔っぽいなあなあなものが消え去ったわけではないが、学生気質は明らかに変わってきているのである。
 同僚の先生たちと話したときの結論は、ジツは文部科学省なんかは、初等中等教育の現状をつぶさに見ていて、今までの大学教育では、もう今の子供たちには対応しきれないということをわかっていて、いろいろ言い始めているんじゃないか、ということである。もちろん、そうとばかりは言えないだろうが、最近の学生をみているとまんざら間違えでもないような気がしてくる。