井手口彰典『ネットワーク・ミュージッキング』

 ポピュラー音楽学会例会で、佐藤良明さんが「演歌の誕生」というエピソードを紹介していたのが、頭に突き刺さったままだ。演歌をつくった人たちは、実は音楽的手法云々まで遡及して考えても、また作り手の情報を分析しても、ブルースとか、よりエッジの立ったところと関わっていた人びとだ、みたいなこと。生活云々に拡散させて考えるのも一興だが、あくまで純粋理論を追求するのも不可能じゃないということ。それから、いろいろな話をされ、メディアはメッセージとか、ぬるいことを言う椰子らもいるわけだが、実はメディアよりもコンテンツのほうが独立変数で、と「拡散論」をある意味牽制していたのかもしれないとか。
 ま、そうは言っても、マクルーハン高山宏、あと音楽未来派野郎とか読んでくると、やっぱりもう一方の考え方も有力に思えてくる。こっちは特に自分で論じる必要もないわけだから、面白がっていればいいという、実に気楽な状態。
 あ、それで、勁草書房さんから本をいただいて、これが東谷護さんたちのシリーズの一冊で、たいへん恐縮しているわけです。もしかすると、東谷さんが、お気遣いいただき、ぼかすために出版社名義にしたのかもしれないとは、思います。いずれにしても、ありがとうございました。

ネットワーク・ミュージッキング―「参照の時代」の音楽文化 (双書音楽文化の現在)

ネットワーク・ミュージッキング―「参照の時代」の音楽文化 (双書音楽文化の現在)

内容説明

 20世紀後半に実用化されたデジタル録音は、録音された音楽の本質を「情報」の状態へとシフトさせた。今日欲望されるのは、もはや音楽ファイルを所有することではなく、ネット上で利用可能な楽曲を記した〈リスト〉、すなわち「参照による聴取の可能性」である。聴取行動の変化を軸に技術と社会を巡る文化変容を描き出すメディア社会論。

目次

序 章 音楽文化の変容
 1 問題の所在
 2 「所有」と「参照」について
 3 技術と社会の関係
 4 相互影響的変化のダイナミズム
 5 本書の構成
第1章 音溝からパターンへ
 1 デジタル録音と音楽の「情報」化
 2 アナログ録音とPCM通信
 3 デジタル録音の登場
 4 「情報」という概念
 5 デジタル録音物の本質
第2章 音楽の象徴的支配
 1 女神はなぜ少年に恋をしたのか
 2 音楽と楽師の身体
 3 「書かれたもの」としての楽譜
 4 身体から楽譜へ
 5 「魔術封じ」としての著作権
第3章 脱「モノ」化する世界
 1 デジタルコピーの本質
 2 「モノ」の複数化
 3 インセンティブ理論
 4 コピーコントロール
 5 デジタルコピーは終焉に向かうか
第4章 参照とキャッシュメモリ
 1 ウォークマンからデジタルオーディオプレイヤーへ
 2 持ち出すもの、参照するもの
 3 キャッシュメモリの性質
 4 データソースへのアクセス
 5 デジタルオーディオプレイヤーの二面性
第5章 利用可能性の〈リスト〉
 1 ウィニーは何をもたらしたのか
 2 ウィンMXとウィニーのシステム構造
 3 二つのリスト
 4 通信カラオケに見る〈リスト〉
 5 変容する聴取体験
第6章 音楽聴取における「いま・ここ」性
 1 拡大する音楽配信市場
 2 「買うこと」と「聴くこと」
 3 テレビCMのイコノロジー
 4 サービスの特異性
 5 音楽配信の可能態
第7章 コミュニケーションが主導する音楽の流行現象
 1 ニコニコ動画の登場
 2 流行曲とその出自
 3 情報の参照と「類似者の更新」
 4 ヒットの要因
 5 コミュニケーションの力学
終 章 「参照の時代」の新たな音楽実践
 1 「こちら側」から「あちら側」へ
 2 ネットワーク・ミュージッキング
 3 通信技術の現在
 4 情報化する社会
 5 文化を涵養する土壌
 6 「参照の時代」に向けて
あとがき
初出一覧
参考文献
人名索引 
事項索引
http://www.keisoshobo.co.jp/book/b35793.html

 「拡散」というモチーフは、他方で一定の線引きをしているわけで、その弁証関係を無視するのは、なにも論じていないのといっしょだというのは、かつてのハイブリッド論に投げかけられた批判で、私も「まぜまぜ論」を言っていたら、おめぇなにも言ってねぇぢゃん、とか、ゆわれたことがあります。総括的なグランドセオリーをつくるよりも、ファクトファインディングスを詰み、中範囲の理論をパイルアップしてゆくのは、ミルズにはマックレイキングされるかもしんないけど、やっぱり重要だと、思っています。
 このシリーズは、というか、ポピュラー音楽学会の一つの動向なんだろうけど、明解なロジックを与えて、キチッと論脈を整理して行っていることは、重要な貢献だと私は思っています。
 この著作は、「参照」という観点を明示し、かつ思いつき一本で印象論を流すのではなく、論点をキチッと分節し、コツコツと論じているところが、すごいところだと思います。っていうか、だからこそ学位論文なんだろうけど。「参照の時代」というのは、なかなかよいコピーでもあり、もしかすると論壇でもやったるで、みたいなこともあるのかもしれません。
 この本の貢献は、疑いのないものだと思いますが、私がここから刺激を得て考えるべきは、また別のことなのだとは思います。私が考えようとしていたのは、バブリーな時代になるちょっと前に、渋谷でマニアックなレコード屋なんかで闊歩しているオサレな連中に焼け焦がれるようなコンプレックスを持ちつつ、地方都市の土着のレコード屋で、限られた商品を冷やかし、一週間もあれば知り尽くせるような街のアングラな中古ショップなんかを物色し、まあまだそんなのはいい方で、壊れかけのレディオだとか、セーシュンデンデケやっていたようなところから、考えていたことは、今現在においてどうなのかということ。なんかやっぱり、やるべき調査ははっきりしているわけだけど、かなり腰は重いのでありました。
 ともかく、お気遣いいただいた方々、いろいろありがとうございました。