山田真茂留『<普通>という希望』

 山田真茂留先生が本を送って下さいました。恐縮するとともに、心よりお礼申し上げます。関東社会学会@筑波大学のシンポジウムでの問題提起、また本書で論じられていることについて、よく吟味して、自分もこのへんでとりあえずの一区切りとしてなにか書いてみなければならない、と思った。
 と同時に、『Do!ソシオロジー』のヘビーユーザーで、概論でテキスト採用をくり返している教師としては、一つの応用編のテキストとして、出版を歓迎したい。データーや文献のレファランスがシュアーなので、信頼してテキストとして用いることができる。内容的にも、若者論と現代社会論を橋渡しする議論で、かつ、「遊べ、狂え」的な文化論とは対極にある論が展開されている点で、うちような社会学のオーソドキシーを重視する大学において、卒論を書く上でのガイドラインを明確に提示できる。

「普通」という希望 (青弓社ライブラリー)

「普通」という希望 (青弓社ライブラリー)

紹介

「自分らしさ」の獲得や社会的成功を生きる指標にしたことで、困難に見舞われ、むなしさを感じて苦悩する人々の現状を身近な事例を導きの糸にして描き出し、〈普通〉〈常識〉の希望に満ちた可能性を、シニカルでニヒルな姿勢からではなく真正面から探る。

目次

はじめに


第1章 〈普通〉幻想のゆくえ
 1 箱庭社会への退却
 2 コミュニケーションの困難
 3 〈常識〉〈良識〉の復権
 4 社会学の過剰、そして過少


第2章 私秘化する感動体験
 1 今日的な感動
 2 日常化する非日常性
 3 七十六年に一度の出会い
 4 ただ憧れを知る者のみが……


第3章 若者文化の宴の後に
 1 若者文化の歴史性
 2 ロックの終焉
 3 サブカルチャーからクラブ・カルチャーへ
 4 欠乏する文化と氾濫するコミュニケーション


第4章 「私」の専制
 1 関係性嗜癖の実相
 2 読まれる「空気」
 3 公共の場だから……
 4 パラノの専横


第5章 集合的アイデンティティの現在
 1 カテゴリーの圧制をめぐって
 2 ラディカル構築主義を超えて
 3 集合的アイデンティティとの付き合い方


第6章 信頼社会の回復に向けて
 1 「われわれ」の射程
 2 互酬性を超えて
 3 〈普通〉に信頼し合える社会のために


あとがき

著者プロフィール

山田 真茂留(ヤマダ マモル)
1962年生まれ。早稲田大学文学学術院教授。専攻は組織社会学、集合的アイデンティティ研究。共著に『制度と文化』(日本経済新聞社)、共編著に『信頼社会のゆくえ』(ハーベスト社)、『Do!ソシオロジー』(有斐閣)など。
http://www.hanmoto.com/bd/isbn978-4-7872-3301-1.html

 山田先生の著作は、さまざまな理論を咀嚼吸収しつつ、明解なデータと例解で、ご自分の学問体系を提示しているように思われた。目次も端正で、よけいな説明は不要であろう。
 これはここでも何度も話したことだと思うけども、・・・山田先生は、組織論研究者として若い頃から注目を集めていた。その後、東大出版の社会学講座で「若者論の抽出と融解」という論を提示された。私は「抽出と融解」という文言に自分の問題意識を重ね合わせ、「今日、若者文化やサブカルチャーは成立するか?」というイシューをこねくり回してきた。
 そこで、今現在に至るまで一貫して「組織論/集合的アイデンティティ論」を専門として掲げる社会学者である山田先生が、なぜ若者文化論にとりくんだか、という問題を考え抜かなかった。これはどうも自分の議論に分はないなぁ、と上記シンポジウムの時になんとなく感じた。そして、その感じは、『Do!ソシオロジー』で2回社会学概論の講義をしているうちに、より鮮明なものとなってきた。
 教科書的な知識として端的に言えば、バウマンの言う「液状化」といった後期近代の問題である。「抽出と融解」というのは、文化論に限局した中範囲の理論ではなく、もっと大きな現代社会論と関わる問題なのではないかと思い始めた。つまり、・・・、制御しても、運動しても、随意に構造や価値が集合的にアイデンティファイできない現状があらわれていること。そのアイデンティティの逆説的な論理、自在さと生きづらさ、随意と不随意の弁証関係を明確に論定できないで、サブとメインの多極化、などとやに下がる私の議論は、なんとも間の抜けた議論ではないか、と。
 と言うのが、ちょっと自虐的にすぎるというのならば、「随意と不随意の弁証関係の文法」としてミルズの動機論=知識社会学分析を読解してゆくぞ!、というのが私の問題意識である。抽出と融解も弁証関係にあると考えられるはずだし、多様な融解即抽出の動態を観察してゆきたいと考えていた。
 しかし論理的にはそこで、私の議論は終わってしまっている。最近執筆した『パワーエリート』論、『社会学的想像力』論、動機の語彙論のモチーフは、いずれも弁証関係の洞察、ということである。
 まあそれでも、一応の議論はできる。たとえば、次のような議論である。30年代のディズニーアニメに比べると拙劣と言うしかないような紙芝居のような日本アニメ、たとえば60年代に放映された最初のオバQ作品は、見窄らしいものにしか見えない。しかし、今日ジャパニメーションとしてアイデンティファイされているような、作品性がそのアニメ映像には胚胎されている。チープとクールの弁証関係に注目することで、いろいろなサブ、辺境、マイナーを、資源動員することができるし、それによって、障碍者や高齢者や田舎や、いろんな弱者の問題を考えてゆくことができるのではないか。
 言うまでもなく、弱者を持ち出せばアイデンティティのロジックを示砂なければならないという問題が回避できるわけではない。弱者と強者の弁証関係、弱点を長所に変換すること、などという議論自体が、無限昂進する。
 その先の一般理論は、『Do!』にもあるように、バウマン、ベック、ギデンズ、さらにはルーマンなどに通じていないといけないのだと思う。最近では、アレントが注目されていることを、某集まりで議論した。その辺までフォローして、始めて同じ土俵で議論が可能になるわけで、その意味でももっと勉強しなければいかんなぁ、と思った。