ジャン=ポール・アロン『新時代人』

 新評論から本が届いた。転居した新住所に届いていた。ちょっとビビッたが、これはまあ日本郵便さんの実力かもしれない。あけたらフランス系の翻訳書で、訳者をみる前に、阿部一智さんが贈ってくださったンだろうと思った。ジャンケレヴィッチのベルグソン論やリベラの中世知識人論などを翻訳されている。高価な本を送っていただき恐縮している。例によって図書館他における販売にささやかな努力をしたい。心よりお礼申し上げます。ありがとうございました。
 フランス文化史、というと、「あの類」などと考えがちである。しかし、本書は、「あの類」への鋭い批判を行っている本であり、新しい動きを創り出す可能性を秘めている本である。訳者たちの「知のオトシマエ」みたいなものを感じて、ゾクッとした。ここで、(笑)と嗤いたいところだが、不思議にそういう気にはならない。30年近く前の阿部さんを思い出しながら、ページをめくり、自分の文化社会学を反省し、また現代の文化研究への問題提起をいろいろと考えた。「生きられた文化」を語っているのだが、カルスタやその後の新しい文化論の動向とも違うなにかが、この本にはあるように思った。阿部さんは、なんとなく行き詰まっている文化研究に対する激励のつもりで本をくださったのかもしれない、などとも思った。いろいろある仕事をそっちのけで本をめくり、考え込んでしまい、で、ここに書いている。

新時代人―フランス現代文化史メモワール

新時代人―フランス現代文化史メモワール

出版社による紹介

 20世紀後半のフランス文化、厳密には第二次大戦終結以降約40年間のフランス文化―哲学ではサルトルメルロ=ポンティフーコーデリダドゥルーズ、文学ではバタイユブランショロブ=グリエソレルスビュトール、芝居ではアルトー、イヨネスコ、ベケット、美術ではジャコメッティ、スタール、ビザンティオス、映画ではゴダール、レネ、マル、音楽ではブーレーズ、さらには人類学のレヴィ=ストロース精神分析ラカン、生理学のジャコブ、モノー、批評・社会学ロラン・バルトといった綺羅星たちが居並ぶ中、過去の巨星たちが甦り(ルーセルの芝居、マネの絵画など)、外国特にドイツ語圏から物故存命を問わず大きな星たち(ヘーゲルフロイトブレヒトハイデガーなど)が招き入れられ輝きを増す眩いばかりの小宇宙。
 本書は、この小宇宙のメモワール、つまりこの小宇宙を「生きる」著者が現在形でその「生きられる」小宇宙を濃密な言葉で見事に表現した作品である。なるほど私たちはこの小宇宙から生まれた作品を書店・図書館・美術館・劇場・映画館・コンサートホール等で目の当りにし、しかもそれらの作品についての情報も既に山ほど手にしている。しかし私たちの目の前の作品とこの小宇宙との深い溝は、それらの情報によって埋められているだろうか。入門・紹介・解説さらには研究という名の情報は、この宇宙の「生きられる現実」から距離をとったところに無色・無害なものとして現れ、むしろ逆にその溝を広げる。本書は、この「生きられる現実」から逃げることを拒否し冷静な観察力と鋭い洞察力をもって、同時代のフランス文化に巣食う深刻なニヒリズムを暴き出し、しかも力強くそのニヒリズムを克服する道を提示している。

著者紹介

 著者-Jean-Paul ARON(ジャン=ポール・アロン[1925-1989])
フランスの作家・歴史家。社会学者レーモン・アロンの甥。社会科学高等研究院主任(1977-)。著作活動は多方面に渡り、本書を含むフランス文化論、19世紀フランス中産階級史研究、さらに小説・戯曲もある。
http://www.shinhyoron.co.jp/cgi-db/s_db/kensakutan.cgi?j1=978-4-7948-0790-8
http://www.shinhyoron.co.jp/blog/?p=1676

 本書の訳者の一人である桑田さんの『フーコーの系譜学』などもそうなのだが、歌舞伎まくりの空回り飛び六方系の読みとは異なる読みの柔らかさ、深さ、厳しさを感じる人々がいる。あの頃福井純先生のもとに集まっていた院生たちの学派的な特徴なのかもしれない。海老坂武の読みというのも、似たような強靱さを感じることがあるが、あちらはもう少しマグマが滾った感じがする。なんというか、クスッと笑う海老坂に、阿部さんたちのクスッほどの味わいがあるとは思えない。
 今回、「生きられた現実」ということばが出版社によってとって出しされているが、阿部さんや桑田さんの「読みを読む」手がかりとしてそれなりに役立つように思う。私は専門外の本は「読みの読み」のために読むことが多い。海老坂武の本なども、読書法の本としてこれ以上のものはない、と思っている。あるいは杉本栄一の『近代経済学の解明』なども、同じような本だろう。だから私は、チャート式の『構造と力』も、近著の『社会学入門』も、「ダサく」読むのである。それにしても、ノウハウに慣れきった学生たちと穴埋めのプリントを使って学ぶ教室では、どのようなプラクシス、ポイエシス(笑)が可能なのだろうか。
 著者のアロンは、『食べるフランス史』とか、『路地裏の女性史』とかの翻訳書が出ている。目次をみれば、この本に「生きられた現実」が語られている、という意味がもう少しよく見えてくる。目次の主タイトルはすべて日月で書かれている。そして、「サルトル弁証法的理性批判』」など著者名著作名がならんでいる副題などの他に、「『レ・タン・モデルヌ』誌第二号」、「ピエール・ブーレーズとの出会い」、「フランス精神分析学界の分裂」、「スリジーにおけるハイデガー10日間討論会」、「ロラン・バルトとの夕食」、「高等師範学校におけるラカンのゼミナール」といったタイトルがならんでいる。
 訳者たちの書簡から引用しておく。

 私たち訳者は、新評論と相談の上、本書に「フランス現代文化史メモワール」という副題を付しました。「メモワール」と付けたのは、本書が、著者アロン自身による同時代(20世紀後半、第二次世界大戦終結後40年間)のフランス文学界についての証言、いうなら「現在形で現場から報告される歴史叙述」「同時代史」「回顧録」だからです。「文化史」と銘打ったのは、ふつう同時代の「文化」全体を論じることはなかなか困難ですが、本書では哲学・文学から美術・音楽・演劇・映画等に至る諸ジャンルが網羅され、同時代の「フランス文化」の全体像がくっきりと浮かび上がってくるように思えたからです。
 こうした同時代性と網羅性が本書の特徴ですが、さらに、同時代の文化界に対する厳しい批判性を備えている点でも本書は顕著です。いやむしろ、おそらくこの批判性こそ、本書の最も重要な特徴でしょう。訳者たちを含め私たち日本人は、とりわけ、第二次大戦終結後、同時代のフランス文化に憧れ養われ大きな影響を受けてきました。本書が扱うフランス文化は、多くの日本人にとっても、遠い異国の遠い過去のものではなく、相変わらず現在形で親しんでいる同時代のものです。本書は、同時代のフランス文化を網羅的に提示するとともに、批判的な視点を提示することによって、私たちをこのフランス文化の本格的な批判的な見直しへと導いてくれる稀有な著作であるように思えます。

 80年代前半私は東村山の塾でアルバイトをしていた。何度も書いたが、地元の中学数校の普通の生徒さんから、ワルの親玉グループみたいなのまで、いろいろな子供が集まっていた。そいつらとドタバタやっていた時期は、私的な挫折感、喪失感が原因で、すべてが馬鹿馬鹿しくなっていて、神経精神の病気が悪化し、最悪の精神状態だったのだが、そこで教えることで、その後の人生のモチベーションを与えられたように思う。生徒学生とドタバタやることを最優先し、研究面ではいささかトホホなことになったが、それが自分の「生きた知」なんだろうと思う。そして、学校、行政、企業などの現場で同じようにドタバタやっている教え子たちがいることはときおり自慢に思ったりもする。
 枕草子の研究をされている津島知明さんや阿部さんがその塾にいたことは、アルバイトに行くもう一つの楽しみだった。津島さんは、古典文学の研究とは別に詩を書いたり、同人誌でシブガキ隊の歌詞分析などをしたりと、面白いことをやっている人だった。阿部さんには、最初はベルグソン他フランス哲学のことを教わったりしていた。マスターの頃は、まだ挫折前で、昨日読んだ知識を翌日並べたてる、という、まあよくあるタイプの痛い語りを、阿部さんにもしていた。しかし、何回か呑みに行ったりして、話し込んでいるなかで、ことばの空回りをゆるさん、というような厳しさをまず実感した。そして、細かいニュアンスまで丁寧に柔らかく読みほぐし、読みほどいてゆく、学問姿勢に敬意を覚えた。あの数年間に本の読み方というのを一から習ったように思っている。
 福井ゼミの人々、あるいは唯研の人々など、30年以上もいっしょに本を読み、語り合えるような仲間がいる人々は、幸福だろうな、と正直うらやましく思う。まあしかし、良くも悪くもドタバタやってきたのが自分なんだと、納得するしかないのだろう。