土井隆義『キャラ化する/される子どもたち』

 郵便受けをみたら、岩波書店からの献本、うわ、また誰か岩波知識人の仲間入りか、と嫉妬交じりの気持ちで封を開けたら、土井隆義さんの新著が入っていて、出版社名での献本、「書評依頼」というカードがはさんであった。「書評、紹介ください」とある。「ブログで」と書くのを躊躇したかな、と思い、私はクスッと笑った。しかし、ともあれ、学生たちに人気のある土井さんの本をいただけたことは、うれしい限りである。ありがとうございました。今忙しくて、丁寧に書けないので、とりあえず殴り書きし、ゼミでの議論なども踏まえて、また書き直すことにしたい。
 私は、土井さんの現代社会論における鍵語は、「純度100%」だと思ってきた。そして、土井本を読むたびに、松浦亜弥の「ワタシ汚れてました」というCFの真っ白な画面と、戸川純の「おしりだって洗って欲しい」というCFの二つが走馬燈のように浮かぶのだった。土井さんが、そんなシモな話で本を書き始めるはずもなく、ケータイの「圏外」ということばを上手に用いて、「圏外化」と術語化し、全編のモチーフの提示をイメージ豊かに行っている。
 この本で描かれているのは、異質なものを排除し、同質なものだけでまとまる心性である。それを青少年の心性として描くだけではなく、社会的な心性として描こうとしている。BPD、BP2といった「病理」が社会的性格と言ってよいほどになり、気分障害は国民病にまでなっているカンジである。
 土井さんは、「キャラ化」ということばを使って、問題を考えてゆく。昨年キャラ論で卒論を書いた学生とKYで卒論を書いた学生がいて、土井さんが何か本を書いてくれたらいいのに、と思っていた。今回の出版は、私にとって待望の本が出たということになるだろう。通勤の電車のなかで、一気に読んだ。
 集団で衝突が起こったり、なにか自分で煮詰まったりしたときに、それと真剣に向かい合い、自分の黒さ、至らなさと対峙するには、それなりの胆力がいる。でも、キャラ化するならば、同質性はレディーメイドに保たれる。感情の負荷も軽減される。キャラ化できなきゃ、圏外化・・・というふうに、非常に明解に集団構造が解析されている。そして、子どもたちをキャラ化しているのは、実は大人たちのほうなのではないか、と問題提起を行っている。親、学校、メディア、会社や地域のさまざまな大人たちが、「キャラ化」「圏外化」を行っている社会が、現代社会である、ということだろう。
 宿命的に自己をとらえ、まんまに受け入れられるかどうかが勝負で、転んだら先はない、などと思い詰めることなんてない。不気味なもの、異質なものを圏外に追いやるのではなく、異様さと折り合いをつけることが大事だ。そういう語りかけは、ちょっと油断すると、キモイとか、無理とか、言われてきて、それを道化て、ネタにして、お笑いキャラ化してきたワタシには、ジーンと浸みるものがある。夜回り先生に「いいんだよ」とか言われ、CoccoKOKIAが「あなたはもう十分頑張った」とかララバイ謡われたら、号泣しちゃうぞ、っていうのはウソだけど、リクツはよくわかる。

出版社によるとって出し

 昨今の若い人びとは,そして後に述べるように,じつは年長の人びとも同じなのですが,自分にとって不都合なものを目に触れる世界から追い出してしまい,認知の対象とすらしない傾向を強めているように見受けられます.そもそも最初から存在しなかったことにしてしまうのです.ある大学生は,うっとうしい相手からのメールや電話に対しては,ケータイ端末に着信表示も着信音も出ないように設定してあると述べて,そのことを「圏外にしてある」と表現していました.
 人間関係の維持に必須のツールとしてケータイを駆使する若い人たちが,その端末の「圏外」表示に覚える強い不安は,このように不都合な人間を圏外化しようとする心性の裏返しではないでしょうか.だからこそ,いざその圏外に自身が置かれてみると,あたかも友だちの対象から自分が消去されてしまったかのように感じ,パニックにおちいるのではないでしょうか.
 これから本書では,最近の若い人たちがよく使うキャラという言葉をキーワードに,このような心性の広がりとその意味について考えてみたいと思います.
(本書「第1章 コミュニケーション偏重の時代」より)

目次:

第一章 コミュニケーション偏重の時代
1 格差化する人間関係のなかで
  「圏外」表示による不安/世界から消去された感覚/カースト化する人間関係
  /「優しい関係」の広がり
2 コミュニケーション至上主義
  画一性から多様性へ/強まる人間関係の拘束力/コミュニケーション能力の専制
  /フラット化する交友関係


第二章 アイデンティティからキャラへ
1 外キャラという対人関係の技法
  同質的な関係への憧憬/キャラクターからキャラへ/不透明な関係の透明化
2 内キャラという絶対的な拠り所
  生まれもった自分への憧憬/成長しないキャラクター/人生の羅針盤としてのキャラ
  /新しい宿命主義の登場


第三章 キャラ社会のセキュリティ感覚
1 子どもと相似化する大人の世界
  フラット化する親子関係/サービスとしての学校教育/「指導」から「支援」へ
  /モンスター・ぺアレントの含意
2 子どもをキャラ化する大人たち
  『砂の器』にみる犯罪者像/キャラ化される犯罪少年/包摂型から排除型の治安へ
  /ケータイ規制という圏外化


第四章 キャラ化した子どもたちの行方
  閉塞化するコミュニケーション/キャラ化した自己が傷ついたとき
  /「確固たる自信のなさ」の蔓延/「不気味な自分」と向きあう力
http://www.iwanami.co.jp/search/index.html

 いろいろ現実のことが書いてあるが、この本は外見以上に理論的な書物だと思う。随所に、理論的洞察に満ちたことばがちりばめてある。私の記憶に間違いがなければ、土井さんと大阪大学の研究会ではじめてお会いしたときに「ゴフマンなどをやっている」などとおっしゃっていたのではないかと思う。書いてあることを、ベタな理論社会学的なゴフマン論として書くことも可能であったはずだ。
 理論をやっている人は、現実を切れ味よく斬ってゆく。切れ味がよすぎるのも考えもので、どんなものでも切り刻み、見事に料理して、消化してしまう人たちがいる。知識がなくても、演繹力だけで議論を圧倒する人がいる。なんでも斬れる。しかし、味わいもへったくれもない。さぞかし虚しいだろうな、と思う。
 実際、ある者は、切れ味の悪い質的調査法などにのめり込んでいく。またある者は、フィールドのなかに分け入って、そこに身を潜める。またある者は、分身をつくり、第三世界に出かけ、上半身裸で日焼けした姿で笑顔の写真を撮る。それでも、ふとしたおりに、切れ味のいい理論が、うなりを上げて、ヒュンヒュンとものを斬り出す。
 土井さんの場合は、理論で切り刻むというのとはちょっと違う。もう少し、端正に、自制された感じで、ものを書かれている。土井さんがブックレットや新書を書く場合、語りかけているのは、現場の教師や、あるいは学生たちなのではないかと思う。だから、分厚い事実としての事例やオリジナルのデータなどは、書物には書かれていない。現場の教師たちは、いやになるくらい現実と向かいあってきた。また、学生たちも同様だろう。
 私も土井さんの本を読むときは、専門書的な実証、論証を追うような読み方をすることはしない。むしろ、日頃学生たちと対峙してきた教師として読んでいることのほうが多いと思う。