動機の語彙論異聞

 吉祥寺のAZ DININGで学生との会合がありました。飲み放題で3000円チョイというのは、なかなかのお得感があります。おまけに飲み物が多く、ものすごい種類のなかから選べます。最後のデザートはケーキで、ちょっとしたカードが添えられるようになっています。駅前店は、前は奥が座敷みたいだったのですが、店も繁盛したということもあるのでしょうが、テーブル席に改造して、なかなかの収容能力になっています。大勢のパーティの場合固定席より立食形式のほうが、話はしやすいと思います。料理は別にセットする必要はなく、固定席と同じように出せばいいと思うのですが。
月曜の概論で試験の話をちょっとしたのだが、その際に例によって、答案の書き方だとかの話をした。段落つけろとか、見出しをつけろとか、きれいな字で書けとか、そういう話。そこから脱線して、過去の答案の話とか、いろいろしたら、コメントペーパーに「もっとやってくれ」と書いた人が複数名いた。やめろという意見はなかったが、これから続けるようなら、文句が出てくるだろうし、7月の教員評価でフルボッコになるだろう。
 で、何故か話しているうちに、いじめの自殺などの話になり、ついでに動機の語彙論、というか動機外在説、動機付与の話をしてしまった。漠然とした不安感やストレスというのは噴出口を求めていて、説得的な理由づけが与えられると、そこに向かって噴出する。自殺に本当の理由などというものがあるわけではなく、理由は状況によって付与され、社会的に納得されるかどうかが問題なのだ・・・みたいな、あまり論理的に整合性があるとは思えないようなアバウトな語り口で、厳密派の人が聴いたら、ケッと言うようなものなのだが、まあ練炭自殺とか、中央線の自殺とか、いじめの自殺とか、いろいろ実例を挙げながら、理由を渇望する不安、もやもやをビシッと象徴化することばたちへの渇望みたいなことを話した。
 自学科の学生たちはほよよ、みたいに聞いていたのだが、コメントペーパーに書いていたのは、試験のことが中心だ。短答式問題という話をしたら、単答、担当、短刀など、さまざまな誤解を読んだようで、あまり一般的でないのかなと、ちょっと反省した。それはともかく、出ている人が報われる授業、というようなことを書いていた人がいる。まだちゃんと集計していないわけだが、今年は前に入り口があるためか、遅刻者はほとんどいないし、途中退席などは皆無だし、私語などもなく、けっこうみんなちゃんと聴いている感じだが、そうでもないのでしょうか。
 いずれにしても、まだ1年生だと、成績についてシビアなのだなと感心した。やはり教職でとっている他学科の上級生や、卒業生の聴講生の人たちは実に面白いことを書いている。なかでもぶっ飛んだのは、次のようなコメントだ。

“皆、理由をさがしている、求めている”
Everything happens for a reason. マリリン・モンロー
I know what they want from me “reason”. Leland P. Fitzgerald

 やっぱり人文系の学生とかが適当に混ざっていると、本当に面白い。実はモンローのところを、私はしばらく錯視していて、マリリン・マンソンに見えていたため、すごすぎると思ったのだが、さすがにそれはなかった。