稲葉振一郎『社会学入門』

 稲葉振一郎氏より、『社会学入門』という本を送っていただきました。ありがとうございました。たくさん売れるだろうし、書評もいろいろ出るだろう。私は、おそらくそういうところに書かれないだろうはずの、別のことを書く。
 一番うれしかったのは、謝辞に三宅秀道氏の名前があったことである。三宅氏は、女子大で講義をご担当いただいている中小企業論の専門家である。中小企業のものづくり、人づくり、さらには街づくりなどについて、詳細なフィールドワークに基づいた研究をされている。そして、実に講義が上手い。その評判に、私は聴講に行き、素晴らしいと思った。その闊達な三宅氏からメールが来て、なにやらビビリまくっている。今度稲葉氏に会いに行くんですが・・・、と言う。ブログなどをみると、すごく怖いと言うのだ。今でこそアレだが、大学入学した頃は、ださいサファリジャケットとマジソンバック持ったあんちゃんだったし、とか、わけわかめな励ましをした。帰ってきたら、「三宅感激」みたいなメールが届いた。よくしてくれたらしい。謝辞を読んで、その後の展開が想い浮かぶような気持ちになった。
 義理堅い、親切なヤツで、岡山大学時代も、誰からも見放された学内左翼集団がつくったサークルの顧問になってやったりしていた。おまけに私も参加していた教官の読書会に連中を招待した。連中は、警戒したような目つきで入ってきた。しかし、一生懸命読書会で話を聴いていた。なかなかできることではない。
 私に本をくれたりもする。何故か?それは二年ほど前に献本したからだ。献本したのは、女子大で講義をしてもらったお礼の気持ちからである。比較文化の「ユートピア」という講義で、数回担当いただいた。コーディネイターの先生から電話があって「ユートピアという講義をするんですが、稲葉振一郎氏の『ナウシカ解読』みたいな・・・」と言いかけたところで、私は遮り「じゃあ、本人ご紹介しましょうか?」と言ったら、「え!」と固まってしまった。たぶん私にやれということだっただろうと思うが、ご本人が来てくれるならその方がいいに決まっている。メールをしたら、即刻返事が来て、さらにコーディネイターの先生は驚いていた。で、期日が来たら、ゴージャスなメシでも食わせろメールでも来るかと思っていたら、あっとゆうまに終わっていた。それで献本したのだが、本をくれた。

社会学入門 〈多元化する時代〉をどう捉えるか (NHKブックス)

社会学入門 〈多元化する時代〉をどう捉えるか (NHKブックス)

出版社の弁

ベーシックな内容から応用まで、
この一冊で万全!


社会学はいったい、どんな学問なのか? 人間や社会をどのように眺めるのか? 近代の反省的な自意識とともに社会学は誕生したという見立てのもと、ウェーバー、デュルケムらの考察や、他の近代社会科学との比較を通して、その根本的な問題意識を探る。ダイナミックに変容する現代社会における、社会学の新たな可能性をも提示する、初学者必読の究極の教科書。

ご本人の弁

社会学にしか興味がない奴はカエレ!」というコンセプトの教科書、殊更に「社会学の魅力」を言い立てない教科書というのが、まあこの本の売りの一つではある。しかしこれは見かけほどあざといわけでもない。
 第一に、自虐は社会学の伝統芸である。社会学者は社会学の悪口が大好きだ。しかし外部から悪口を言われると怒るのだが。「社会学社会学」も「再帰的近代化」もまあ、そういうことだろう。
 第二に、社会学プロパーよりむしろ隣接分野に広く目配りするのも、社会学の伝統芸だ。ただこの二十年ほど、もっとも端的にはフーコーハーバーマスの扱いに顕著だが、社会学者でもない人の業績をいつの間にやらちゃっかり社会学の在庫目録の中に入れて涼しい顔をする、という悪い風潮があるのだが。
 日本においてこの風潮の原点というべきは、おそらくは1980年、若き内田隆三の衝撃のメジャーデビュー論文「構造主義以後の社会学的課題」であろう。この論文こそが内田の代表作であり最高傑作だとぼくは思う。
 内田のこの論文におけるレヴィ=ストロースフーコーボードリヤールに対して、ぼくの教科書の場合はドーキンスデネットスペルベルというわけだ。しかしどのみちフーコーは登場するし、モダニズム論においては内田的な議論の影響は隠すべくもない。
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20090613/p2

 本を読んで思いだしたのは、浅田彰『構造と力』に続いて、東の若手見参とばかりに、平山朝治が続けざまに本を出したときに、「これはチャート式ではない」と稲葉振一郎が言っていたことである。とりあえず「わかったつもりになる」こと。これはたしかに重要なことだ。渡辺茂氏が、『数学に強くなる法』という本の中で、言っていた数学学習の骨法?wに通じるものがある。極言の定義などでもなんでも、とにかく丸暗記しろ、そして友だちの前で知ったかぶりはしてみろ、そして言われた方は人の揚げ足をとりまくれ、そうしているうちに、本当にわかってくるものだ、というのが渡辺氏の弁である。
 この本は、社会学者が社会学を語るというようなことじゃなく、世界からみた社会学を語る、と巻頭に宣揚されている。このスタンスも、稲葉振一郎の常道だろう。そして、アンチを挑発するように、チャートチャートチャートチャートと、もうダダイズム歌舞伎まくりみたいなカンジ。快活に笑うしかない。
 某母校で近代社会学史の講義をしていたら、「古典を読まないヤツはうちでは通用しない」などとコメントペーパーに書かれてしまって、速攻辞めた私のような者が、例えば本書のデュルケムの章を読んでみても、なんか言いたくなるカンジはする。ゴフマン読みからすれば、宗教論、儀式論すっ飛ばして、一番異質の分業論チャート化して、済み、って、ちょっと、とか。でも、それも奥村隆『社会学に何ができるか』かなんかよんで、チャート化して、でもって古典めくったかめくらないかくらいで、「古典読まない=通用しない」というレベルですから、まあ結局同じことで、そこから始まるみたいなことなんだろうし。
 各章について、そういうことは言えるけど、ドーキンスデネットスペルベルとならべてあると、ふむぅ、ということになる。特に、スペルペルは言われちゃったという人は、けっこういるだろう。と、ボクは思う。
 実はボクの周りには、稲葉のアンチが多い。そういう人たちは、多くが、昔、ヨシモトがさぁ〜、ヘロマツがさぁ〜、マキユースケがさぁ〜、オリハラがさぁ〜、みたいにやっていたのと同じように、タテイワがさぁ〜、イチノカワがさぁ〜、みたいにやっていて、で、そんなのと稲葉がいっしょに仕事をしたりしているのに、ちょっと納得いかないみたいな感じなのだ。でも私は、なんとなくその意味がわかるような気がするのだ。