「本が読めない人」と言った学生さんへ

 昨年の授業で学生に『アダム・スミス』という新書本を薦めて、賞を取った本だし、社会科学の基本を勉強するには大事、みたいなことを言った。まっとうな経済学者が道徳感情論を視野に入れて論を展開していて、それが一定の学問動向を生み出そうというような意思を胚胎させているというのは、経済学コースの学生にも社会学コースの学生にもいいと思ったのだ。このコースも、今の二年生で終わってしまったわけだが。
 薦めても、読みやしねぇだろう、くらいに思っていたのだが、実際にチャレンジした人がいて、「わからなくて凹んだ」と試験答案に書いてあり、苦笑してしまった。なんか、さほど成功裏に進んできたわけでもないだろう、正解を出すゲームにまだこだわっているんですか、みたいな。わからなきゃ、読まなきゃいいんだ。というか、SPAでも話題になっているバカ教師の一人が、読みやすい、みたいに薦めたのがわからないと、凹むのかもしれないけど。
 まあ、こっちはそれなりの経験があり、経済と社会とか、自由と規範とか、いろんな学問に共通するそれなりの座標軸を基礎として身につけている。さらに専門的な論争をいくつか知っている。専門に近いところでは、それなりの議論の積み重ねも知っている。学問に共通する座標軸、たぶんこれを教養というんだろうが、その教養と、専門的な知識、見晴らしを持っていれば、ちょこっとめくれば、「ああ、あの類ね」くらいの割り切りはできないことはない。もっとも最近はいささか不勉強だし、知識もさび付いてきているので、エッジが立った見極めができているとも思えない。また、「あの類ね」とか、「よくある議論」とか、半可通知ったかぶりのすれっからしな発言は、虚心坦懐な学問からすれば、唾棄すべきものなんだろうとは思う。しかし、右も左もわからないということはない。
 さらに今は、教養のほうは、ロジカル英文解釈横山とか、受験国語教養の石原千秋とかゆう達人が、わかりやすいチャートをつくっている。専門のほうだって、上手くさがせば、それなりの見取り図はゲトできるだろう。というか、概説の授業なんていうものは、そのために聞くモンだろう。というか、すべての授業はそうかもしれないとすら思う。言い授業をたくさん聞くことで、読み書きのポイントが着実に創れるようになる、と思う。そういう作品づくりと切りはなして、資格や就職とかわけわかめな心配ばかりして、かつ受験的な知のゲームから一歩も出ようとせず、正解づくりのゲームに固執していたら、授業だっていやになるだろうと思う。結果として、就職だって、それなりに見透かされた結果しか得られないかもしれない。
 本を読んでわからないなら、読まなきゃいい。読めばわかる本だけ読めばいい。そんなことを言うと、読む本がないとウジウジする。それならなにも読まなければいい。放っておけば、しばらくしてわかるようになることもある。それに耐えられないなら、めくればいい。めくっているうちに、ちょっとずつ見えてくることもある。最初は難しい。英語の本なんかも、50ページ耐えれば、あとは早くなる。日本語の本なら、もうちょっと早く、「あの類ね」とわかるようになるかもしれない。こいつ、こういうヤツぢゃね?みたいなこととか。
 めくっていて、これだと思ったところを書き抜く。それを人に言う。わかんなくても、議論してみる。批判されても、たじろがない。黙ったら負けだから、「あいうえお!」とか絶叫していると、相手が「さすがだな、お前」みたいな顔をすることがある。ちょっとうれしい気持ちになる。まあそんな程度から、出発しているアホもいるわけだ。もちろん、そうじゃないどうしようもなくすごいのもいるから、誤解してはいけないが。そういう乱取りを通して、だんだん読めるようになってゆく。
 入試監督をしていて受験生の鞄をみると、ボロボロになった参考書などが見えることがある。そういう一冊の修練が、自信のよりどころだったんだろう。でも、学問は、一冊の鍛錬をする本をみつけるために、1%も理解できないような読書をくり返すのだ。部分しか読まない本はいくらでもある。加藤秀俊先生なども、ある場所で、「索引から読む本だってある」などと言っておられた。
 卒論だって、とりあえず目をつむって私の書架から本を取らせて、目をつむって本を開かせて、目をつむって指を指させて、その一文を写させて、そこから始めて書ききったのがいる。まさかそれで書ききるとは思わなかった、と言ったら怒っていたが、わかんなきゃそうきめたっていいのだ。学問は舐めてはいけないが、逆にがちがちになっている場合なら、こういうずんベラな態度も大事だと思う。
 ヒアリングなんかも、1ページくり返し聞いていてもわからないから、どんどん先に進むと聞けるようになるという。正直最近こういう修行(リハビリと言ったら、思い上がるなとか言われたので、修行というのだが)を遅ればせながら、始めたのだが、たしかに聞いていると、リエゾンみたいにする早読みの部分だとか、強く言うところとか、わかってくる。なんとなく思考が流れ出すような、ストーリーもいくつかできてきた。
 まあそうだよね。将棋だって、とりあえず一つの戦法を身につけることから始める。だったら、勉強もポイントを一つだけ覚える。その昔のイデオロギーの時代に、運動をやっている人は、大学院入試や修士論文でかなりいい成果をあげることがあった。明解な二分法より強いものはない。そういって悪ければ、貧困や環境問題や、何でもいいけど、問題を解決したいという実践的な意識が強い人は、クリアにものが言える。最近の学生さんは、リクツよりそういう実践的な意識はかなり明解で、学ぶことも多い。
 答えがいらない、人は意外に少ない。それでも学問的な雰囲気がスキなら、一つの立場に立つことにして、論争をさがして、なんか言ってみる。環境問題への問題意識があったことはあったが、私は恥ずかしながら、この類、しかも劣悪なたちのものでしかなかった。でも、先生に「問題意識はない」「問題さえくれれば、いい修論書く自信があります」「与えられた問題には鬼強ですよ」「私は暗記力はあるが考える力はないですから」などと言ってはいけない。私は、公言してはばからず、随分怒られた。