難波功士『ヤンキー進化論』

 大学に来てみたら難波功士さんから『ヤンキー進化論――不良文化はなぜ強い』という本が届いていた。ここのところ精力的に成果を公刊され続けている。敬服するとともに、お気遣い本当に恐縮した。ありがとうございました。
 ヤンキーの語源が「やんけ言い」かどうか、みたいなことから始まって、ナンシー関などを利用して、ザックリ視点=「眼」が示される。そして、膨大な史料を用いて議論が展開される。社会学部や、社会学科、いわゆる社学の学生の一定数は、「こういうことをやりたかった」と言うだろう。雑誌、テレビ、映画などに描かれたものががんがん出てくる。そして、それがクリアに分析される。読んでいると、研究だけではなく、ゼミがどんなものかも見えてくる。「こういうことをなぜやってくれないの?」という学生たちの声が聞こえてくるような気がする。
 不良、ワルから、エロガキ、変態、犯罪者、異常者・・・・常識の底が抜けちゃっているものは、独特のエロスを湛えている。作品とはそれが方法的意思として峻立しているってことなんだと、誰かが言っていたような気がする。峻立してなければ、文化ですらないか、あるいは文化であるとしてもサブカルチャーにすぎない。そのようなサブカルチャー性とは峻別される一定のポピュラリティを持った存在として、ヤンキーを見据えているように思われました。ナンシーの眼に照らして、味読してみたいと思います。

ヤンキー進化論 (光文社新書)

ヤンキー進化論 (光文社新書)

“ふだんは上下揃いのジャージ姿で、いざというときは特攻服に身を固め…”といった戯画化されたヤンキー像は、時代遅れになったかもしれない。だが、元ヤン芸能人や、ケータイ小説の流行が象徴するように、「ヤンキー的な人・モノ・コト」は姿形を変えながら広がったいる。本書は、強い生命力を保ち続けるヤンキー文化の40年間を、映画やコミックなどの膨大な資史料をもとに描く。そして“反学校”と“悪趣味”のパワーを再評価する。


第1章 「ヤンキー」とは誰か?
第2章 ヤンキー以前
第3章 「東京ヤンキー」の時代
第4章 暴走の季節とヤンキー
第5章 さまよう「ヤンキー的なもの」
第6章 ヤンキーとツッパリ
第7章 親衛隊文化とヤンキー
第8章 ヤンキー・メディアの隆盛
第9章 拡散するヤンキー
第10章 おわりに―格差社会の中で
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4334035000.html

 量産体制に入った、とも言えるだろうが、そのお仕事にはキッチリ専門的な筋道が通っている。難波さんは経歴にもあるように広告会社に勤務されていた人である。この本をはじめとするいくつかの著作がめざす貢献の一つは、そういうこともあるのかな、と思わないこともない。帯にあったマンガのセリフ。「あのなあ、ここだけの話お前ら売れるわ。ヤンキーが面白いと思うマンガは必ず大ヒットするんだ。あの層を取り込めたら、軽く100万部はいくぞ」。まあこれは、間違いなく出版サイドの戦略ってことなんだろうとは思うし、それが威風堂々描かれていて、どでかいロゴで「日本人の5割はヤンキー!?」と書いてあるのは、気合いのユーモアみたいに思われるが、しかし、まあ、ベタにそういう貢献があるとも、考えられるとは思うのである。
 他方、難波さんは、歴史学のご出身である。歴史学の出身の人は、類型図式を出したり、一般化された仮説を出したりすることは、あまり好まない傾向にあるように、私には思われる。過度に一般化されたタクソノミーを展開すると、「だから社会学やっているヤツは・・・」みたいな顔をされ、事実を持って語らしめよ、などと注意される。と同時に、事実を蒐集し、その微細なあや、ニュアンスにまで細やかに、描いてゆくときの「眼」に方法的な個性を感じることも多い。
 また歴史学においては、実証的な方法としての史料批判の訓練は必須のものであり、今なお東大新書の『歴史学入門』は公刊され、一部では必須本に指定されていたりする。社会学が歴史社会学を標榜したりしても、どこか冷笑しているように思われることもある。さらっと、ちょっと思想用語、批評用語が目立ちますね、などと言い添えられたりすると、ドキッとすることがある。私は難波さんの作品に向かい合うとき、いつもそういう畏怖に似た感情を抱く。
 良知力の『向こう岸からの世界史』を思い出したりもした。本書の冒頭にある大和川鶴見川。日本でもっとも汚染度が高いとされる川だ。難波さんの「眼」がどのように世界史を見据えているかというのは、一貫して私が持ち続けている関心である。