河村望『プラグマティズムで読み解く明治維新』

 春休みの読書は、小谷野敦四方田犬彦高山宏と来て、最後はマクルーハンのメディアの法則を再読して終わり。「先生とわたし」の先生のまわりをひとまわりした感じだが、『超人高山宏のつくりかた』に出あえたのは行幸だった。マクルーハンの解説を読んだときは、カトリシズム、電子メディア、20世紀文学みたいなことが、チクッとしただけだが、この本に出あえたおかげでほんのわずかだが理解が広がった気になった。魔神のすごさにほぇ〜となって終わるかと思ったら、毎日大学図書館に通って本をひっくり返してかり出し、あるいは雑誌のコピーをとりということが始まってしまった。そんなことをしているうちに、マクルーハンの解説って、この人じゃなかったっけ??と思って引っぱり出したら、そのとおりだったことは、ちょっと目利きっぽくて、うれしかった。細々と知をパクつき、気弱に人目がつかない場所で細々と健啖まぐまぐするアテクシのようなものにも、応分の楽しみを与えてくれる。

超人高山宏のつくりかた (NTT出版ライブラリーレゾナント)

超人高山宏のつくりかた (NTT出版ライブラリーレゾナント)

 若い頃の修行から、師弟関係、梁山泊としての大学、大学改革と新しい人文学など、刺激的な内容のことが『つくりかた』には書かれている。視力が失われかけ、手の指の神経がおかしくなるほどの修練をまぐまぐと健啖喜悦したあげくに、悪魔が覚醒するみたいなのは、すさまじい挑発だ。教授会のこともビックリした。S大先生が発言するということになると、笑い声が出て、拍手すら起こる。で、一瞬静まりかえってなにかと思ったら、紋付き和服の碩学が悠々と遅刻してきて着席、みたいな。まさに悪魔のスクツだったのね。で、私が今の大学に着任したときに、そこから来た先生が2人いて、1人がテツヲタとして著名な先生で、もう1人がわれらが烏村教授だったのである。
 学会ではドスのきいた強面の先生として著名だったが、弱者に優しい先生であったし、それ以上に魔性の知性みたいなところがあって、四角四面とばかり思っていたカチンコチンマルクス主義というもののイメージが一新されたのも記憶に新しい。何度も話したことだが、私は先生の大学院の演習におやめになる前何年か出ていた。ミードを学ぶためであったが、それ以上にマルクスをはじめとする社会科学の近代化論、デューイやミードのプラグマティズム、それから日本の民俗学、神話学、日本史学などにわたるあれこれを、奇想天外な枠組で語り続ける様は、まさに悪魔が憑依した感じで、あっけにとられていた。私はそういう教室の雰囲気がすごく気に入っていた。授業に出させてもらうとかいう媚態は若い頃より最も苦手としてきたし、また先生もそんな輩はケチュンケチュンに照り焼きにしてしまう人だ。純粋に出たかったのであり、だからこそ出させてくださったのだと思う。
 その河村先生が本を送って下さった。恐縮するとともに、お礼申し上げたいと思う。ありがとうございました。裏表紙に引用されている文章を掲げておく。

プラグマティズムで読み解く明治維新

プラグマティズムで読み解く明治維新

 [私は]例えば、人形浄瑠璃で語られている世界が、幕末から明治初期の国民の経験に基づいていることを理解するには、かなりの時間を費やした。歴史的記憶というものは、図書館のなかにある本のようなものではなく、個々人の心身にきざみこまれたものであり、問題状況に直面したときに蘇るものなのである。

 授業に出ていたときに、おりに触れて話されていたことが、ここには凝縮してまとめられている。「近代日本国家と国民の形成」という書名をつけたかったということだが、出版社の事情で「プラグマティズムで読み解く明治維新」となったようだ。「近代化=欧米化=二元論VS 近(現)代化=アメリカ化=二元論の克服。吉田松陰西郷隆盛らと徳川(源)慶喜は対立していたのではなく、日本の開国と議会制民主主義の確立という点では一致していた。なぜ今、世界はオバマプラグマティズムなのか!!」という文字が表紙に躍っている。これが出版社の売り出しの論理であることは間違いがない。デューイ、胡適・・・そしてオバマと、なんとか読者とおりあいをつけようとしている編集者が、面白い。
 隠し味ともいうべき魔味を味わうようにして読むと、いろいろと考えることもあるし、また私たちに託された課題というのも見えてくるような気がした。先生は、「女子大にいたからこの本が書けた」とおっしゃっている。そのことの意味合いを噛みしめながら、勉学に生かしてゆきたいと思っている。