三平と談春

 林家いっ平が林家三平になったわけだが、海老名家というのは、なんであんな襲名披露できるのかな、と思いつつも、峰竜太の家とかも外車ズラーーっと状況だと言うから、まあありなのかもしれない。しかし武道館はすごすぎると思う。
 で、新三平をみていて、まず思い出したのが、土井勝の息子?っていうか、跡継ぎの人テレビで見てぶっ飛んだのも記憶に新しい。刑事コロンボの声優の跡継ぎ状況というか、まるでモノマネみたいなカンジで、どうするつもりかね、と思いつつ、何年もやってすっかり定着して、眼に馴染むようになっている。今先代をみたら、全然違っているのかもしれない。こういうのもありなんだろうなと思う。
 例の、「よしこさん」だとかのCDなんかもそうだけど、パフォーマンスというか、ハビトゥスというか、みていると、先代のドーモすいませんが蘇るってくらい、けっこうそこそこ似ているような気がする。新東京タワーができたら、「新タワープレゼント」とかやったら、大笑いだけどな。ついでに、渡辺だったっけ、汁粉の元とか、粉ジュース、粉サイダーとか、リバイバル販売して、昭和だぜ、みたいにやったら、けっこう話題になったりしてな。小学校で、粉ソーダを口に含んで、涎でとかして、泡噴いて、「ポン中の発作」とか絶叫して、「あんたポンなんかやるのはろくな人じゃない」と言われ、「よく知ってんじゃん」と返しをしたら、先生にタコ殴りにされたという話は、絶叫からあと後半はツクリです。w 
 というか、アテクシの話はこういう嘘、というか勢いに基づく、記憶の誤差がけっこうございます。一部の学生さんに大好評だった、「ごめん愛している」という恋文を原稿用紙200枚で書いたというネタも、ごめんネタと原稿用紙ネタの合成だということを、過日後輩の某六大学教員に指摘されました。
 それはともかくけっこう落語がじわじわとブームになってきていて、あらためて、最近ちょっとなぁというR-1グランプリも変わってくる予感もあるのだが、テレビに出ないで、じっくりやって話題になっている人も、いろいろ出てきているかんじ。たとえばこれ。

赤めだか

赤めだか

赤めだか [著]立川談春

[掲載]2008年6月22日
[評者]重松清(作家)
■「僕」から「談春」へと青春は駆け抜けて
 すたたたたんっ、と物語は始まる。名調子である。冒頭の1ページ。決して技巧を凝らしているわけではないのに、言葉がはずむように目に飛び込み、胸にしみる。なにに似ているかと考えたら、漱石の『坊っちゃん』なのだった。なるほど。これはいい。


 弟子入りから始まって、前座時代、二ツ目時代、そして真打ち直前まで……。談春師匠の自叙伝は、同時に立川談志師匠率いる立川流の内幕話でもあり、抱腹絶倒にしてホロリと来る若手芸人たちの群像劇でもある。なにより、談志師匠、柳家小さん師匠、そして桂米朝師匠といった御大たちの肖像が素晴らしい。なかでも〈揺らぐ人〉である談志と最晩年の小さんとの微妙で複雑な師弟の情と、それを理解しつつも翻弄(ほんろう)され、もどかしさやせつなさをグッと呑(の)み込んで「師匠とは、弟子とはなにか」を噛(か)みしめる談春さんの情は、芸人の世界のドラマを超えて、読み手の胸にも深く、熱く、迫ってくる。


 優れた回想型青春記は、描かれている青春そのものの魅力だけで成立しているのではない、と僕は考えている。それを振り返る作者が、あの頃といまとの距離をどうとっているか。たんに懐かしむだけならつまらないし、オトナの視線でクールに(自分に都合良く記憶を改竄<かいざん>しつつ)振り返ってしまうと、もっとつまらない。かといって過去にべったり入り込みすぎると、それこそ酒の勢いを借りた思い出話となにも変わらなくなってしまうではないか。


 その意味で、談春さんの距離の取り方は絶妙――「お話を語る」ことのプロ、ゆえだろうか。談志師匠へのまなざしもそうだ。「物語の中での思い」と「それを描くいまの思い」のずれが、談春さん自身の成長にも重なっているのだ。それを示すかのように、作中の自称も変わる。最初は〈僕〉だったのが、談志師匠の流儀にならって〈談春〉と書いて〈ボク〉とルビを振るようになり、やがて〈談春〉の読み方は〈オレ〉になる。出世魚のような自称の変遷が、若者の成長物語としての本書の魅力をさらにきわだたせているのである。
http://book.asahi.com/review/TKY200806240155.html

 独演会のチケツとか、じぇんじぇんとれないらしいんだが、自宅に隣接するのが、野毛のにぎわい座なわけだし、都内のライブとか言わないで、ここに通いまくって少し勉強してみようか、などとも思うが、この世界は怖い人が一杯いるので、私は「だいたい昔も文楽だなんだかんだというより、助六今輔だとか、若い頃の三平のよしこさんが好きだったし」などと嘯いて、「でも、古今亭志ん朝は残念だったよな」とかチラリズムにもならないようなことを言うのが関の山だろう。と言いつつも、今年の卒論で落語をしたい人がいるので、大推奨した次第。
 昨年のA先生のゼミ卒論でも出たし、若手の院生もやっている主題だけど、大衆芸能が高級文化化している状況というのは、けっこう今は大事かもしれないよな。こっちのほうが、財を産むみたいな、金の卵探しゲームみたいな。しかし、それすらも百円均一みたいになるのは、デフレの怖さなのか、それともなんちゃらシェアリングなのかは、判断を保留せざるを得ない。