大学入学前指導をめぐって

 ここのところ毎年のように、受験合格者の入学前指導について、問い合わせがある。新学部社会学専攻(文理学部社会学社会学コース)では、推薦入試やAO入試をも含めて、入学前指導=何を勉強しておけばよいか、何か課題を与えてくれないか、ということについては、特別の指示はしないことにしている。もちろん課題を出すというのも、一つの識見だとは思うし、そういう親切さもあっていいとは思うのだが、社会学専攻では高校の先生方のご指導を尊重したいということである。
 私たちが卒論指導をしているときに、よくできる学生の卒論がなかなか進まず、どうしたんだ?、と思うことが、毎年のようにある。よく聞いてみると、内定先の研修プログラムがものすごいヘビィデューティになっていたりする。なかにはいついつまでに資格をとれと、義務化している例もみられる。現場指揮官の人がちょっとはりきりすぎている場合が多いようだが、あまり絞り上げるのは、ちょっとアレだなぁと、プレイスメントの品格を問いかけたくもなる。
 大学入試における事前指導、入学前指導というのは、これほどのヘビィなものではないだろうし、品性正しいものであることは、よく理解しているつもりだが、それが高校教育のなかでどのように位置づけられているか、というようなことがどうしても気になるのだ。高校や予備校の先生たちが語る橋渡しの教育=高校と大学のブリッジ教育は、エビゾリになって学ぶに足りるものがあるのではないかと思うし、その邪魔はしたくないのである。(課題を出すのが邪魔になっているというのではない、そういう「問いかけ」をしてみるのも、一つの識見だろうから)。
 自分の経験にてらしても、大学入試が終わったら高校の学習指導は終わりというわけではなかったと思う。年明けの大学入試前から、入試後受かったあと(わずか十日ばかりだったが、その間)に、先生たちが異口同音に話されたことは、今でもよく覚えていることが多い。先生たちは、自分たちはこう学んだというお話や、自分ならこう学ぶ、あるいは自分が大学教員ならこう教える、こういう本を推薦する、というようなことを異口同音に熱心に語られていた。
 高校でできた友人が真の友人という先生がいたかと思うと、真の友人は大学で得るものだという先生がいた。専門書を買ってきて読め、という先生がいたかと思うと、もう一度高校の教科書をじっくり読んでみろ、などという先生もいた。一つだけ共通していたのは、これからは教えてもらうんじゃなく、自分で学ぶんだ、ということだ。まあこれは時代が違うかもしれない。今の大学は、教えてもらえるところになっているから。
 ドイツ語が得意な元研究者志望の社会科教諭は受け持ちの生徒全員にドイツ語の辞書を配り、勉強の仕方を説いた。生物の先生は、私が社会心理学志望だというと、生物学との関わりをうれしそうに語り、動物行動学の本などを教えてくれた。数学の先生は、高3の4月から教科書無視で、modなどの記号を用いた、つまりは高校の内容を超えた授業を威風堂々やっていた。物理の先生は、量子力学などの話を「脱線」と称して延延と話された。国語の先生は新書の読み方や、文章読本の話をしていた。英語の先生のなかには、変形文法の記号を使って授業をしている人がいた。
 高校では受験への不安や不満から、そういう話を、三流受験校の三流教師ならではの戯言で、自分たちを棚に上げ、一流の受験テクニックとはまったく異次元のもの、と見下すような風潮があって、私もけっして素直に聞いたわけではないのだが、先生たちの気持ちは多くの生徒に届いていたと思う。受験勉強という軛から解放されて、自由に本が読めるようになったときの解放感は忘れられない。うちには大学を出た親族などいなかったので、そういう先生の話だけが手がかりだったが、学ぶ意欲はすさまじいものがあり、ありったけのお金を使って本を買い、また通い慣れた横浜市立図書館で借りて、自習室で読みあさった。入試が終わっても、図書館にはずっと通い続けた。まぐれで受かった入試で、自分がたいしたことのないことは、吐き気がするくらいわかっていたし、勉強方法は無手勝流のぶざまなものだったが、学習意欲だけは貪婪で凶暴なものがあった。それだけは、自分の可能性だったと、今でも思うし、自慢していいことだと思っている。
 大学入学前指導というのは、入試テクニック、就職のノウハウなどとは異なるものだと思う。何をやっておけばよいか、大丈夫か、という不安はもちろんわかるし、最近は成績がGPAみたいにグローバルな持ち点になってしまうところがある。昔流は通用しないのかもしれない。
 何をすすめたらいいのだろうか。基礎学力としての語学や日本語力などについては、まあ社会の教員が言うことではないんだろう。スタディスキルについての、ブリッジブックは意外なくらいないように思い、調べてみたら、ミネルヴァの「よくわかる」シリーズなどにはあるし、ソキウスの野村一夫さんが社会学の作法として説かれていたりする。教養としての大学受験国語みたいな本もけっこうある。大学としてスタディスキルについて、なにか公式見解はないかと思いHPをみていたら、大学入試の傾向のなかに必要なことは書かれていることがわかった。入試問題は、なによりも雄弁に必要なことがらを語っているものである。エビゾリになって読むべし!!と言いたいと思う。
 ただ、スタディスキルの本を読むよりは、なんか重厚な本を一冊読む方がいいとは思うが。大学1年生に中公新書の『アダム・スミス』をすすめたら、わからないで自信を失った、という感想をもらった。実はすすめた私自身、「ちゃんとした経済学者」が道徳感情論について論じた本くらいしかわかっていない。あまりちゃんとわかろうとすると、自分なりの自在なトレースがフリーズしてしまう。わかるところだけわかれば、最初のうちはいい。つま先だって、自慢して、人にいじめられて、凶暴なモチベーションで読書して、はじめて身につくこともある。でも、その前に凹むのが、今流なんだろうね。うーん。
 社会学については、入学後でイイとは思うが、ブリッジブックはいろいろある。若林幹夫さんの入門以前、宮台真司さんの14歳、玉野和志さんたちのブリッジブック、アエラのムック本2冊、洋泉社の子犬本、森下伸也さんの事典などなど。本屋に行って、眼についたもので、ぴたっと来るものを買ってきて読めばいいと思う。もちろんそれで大丈夫かは、わからない。社会学の場合、そんなもの読むンじゃない、という先生もいるだろう。まあしかし、うちの大学ならとりあえず1年は大丈夫だ。だって、私が社会学概論をやるのだから。w 今年の不評をなんとか盛り返したいものである。