難波功士『創刊の社会史』

 最近所用が多くて、非常勤の休講をしたかと思ったら、本日は講義に間に合わなかった。申し訳ないかぎりである。私は実はけっこう遅刻は多い。非常勤かけ持ちしたりしているときに、会議などが入るとちょっとのことでものすごく遅れてしまうことがある。通勤するようになったら、一時間は余裕を見て行動しなければ、と思った。
 家に帰ったら、難波功士さんから本が届いていた。恐縮することしかりであった。そして、心よりお礼申し上げたい気持ちである。裏表紙のお写真を拝見して、え!こんなだったっけと一瞬驚く。髭をはやされたということだけなのが、学会などでお会いしてご挨拶しないで失礼してしまったかと気になりだした。
 今年の年賀状に、F大のI先生より学会のおりお食事どころですれ違ってご挨拶もできずに・・・と添え書きいただいて、またやっちまったか、とクールポコな気分でブルーになったからだ。T北大のT先生だとかもそうなのだが、院生で報告されたときのお顔がそのまま記憶に残っていて、お会いしてもなかなかコンニチワというのは怖いのだ。前に実は、思い切って挨拶したら別の先生だったことがあり、なかば恐怖症になっている。私は、ちょっと精神神経的な病気だったこともあるのだが知り合ってから何年かはあまり人の顔を見て話さない。そんなこともあるので、研究会などでもその日の気分によりずいぶんご不快な思いを多くの方にかけているのではないかと思う。お詫びしたい。
 さて、難波本だが、創刊号で語る若者文化の社会史である。70年代以降に絞ってあることもあるわけだが、よくぞここまで集めたものだというふうに感心する。表紙が写真で載せられていて、そこにエッジの立った解説がつけられている。全体の章は十一章で、すべての章タイトルが「それは・・・である」というかたちになっていて、「・・・」に異なった名詞を配することで章タイトルができあがっている。名詞とは「山師」「柳の下」「瀬踏み」「黒船」「伴走者」「兄弟姉妹」「カレ誌」「アウトサイダー」「キャットファイと」「青田刈り」「忘れたい過去」となっている。理論でこねくり回していないので、CDのカタログ誌でノーツを見ながら、物色するみたいなカンジで、とりあえずは気軽に読める本だ。ただし、よく読んでみると、凡百のノーツなどとはまったく異なるものであることが、実感される。つまり、なんというか・・・、お約束の文体、お約束の落としどころ、紋切り型の切り口で、おおざっぱに見当をつけて、やっつけ仕事をしているようなものとはまったく異なるお仕事であることが実感される。

創刊の社会史 (ちくま新書)

創刊の社会史 (ちくま新書)

ジュンク堂サイトの紹介文

 創刊号をひもとくこと、それは封印された過去を追体験することに他ならない。そこには、時代の情念がねばりつき、出版人の生あったかいドラマが織り込まれている。本書では、「an・an」「POPEYE」「non・no」「JJ」「CanCan」「Olive」「Hot−Dog PRESS」「BOON」「GON!」「egg」「小悪魔ageha」などなど、70年代以降の若者雑誌をたどりながら、読者がメディアをどのように受容してきたのかをみていく。甘酸っぱい思い出がよみがえり、忘れた(い)記憶に再会できる、めくるめくタイムトリップをご堪能あれ!

著者略歴

 1961年大阪府生まれ。博報堂に在職中、現東京大学大学院情報学環にて修士号を取得。現在、関西学院大学社会学部教授。博士(社会学)。著書に『族の系譜学』(青弓社)、『「広告」への社会学』(世界思想社)、『「撃ちてし止まむ」??太平洋戦争と広告の技術者たち』(講談社選書メチエ)などがある。
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480064554/

ご本人の紹介から

 来年早々、拙著『創刊の社会史』ちくま新書
が書店に並ぶはずです、はい。
かっこいい帯などつけていただけたので
けっこう書棚で目立つはずです。よろしくお願いします。
相関ではなく、創刊です。日本の70年代以降の雑誌の話です。
http://d.hatena.ne.jp/sidnanba/20081227

マスコミ志望の学生たちに読ませたいなぁ、と思ったりした。そして、このゼミは人気なんだろうなぁ、とも思ったし、人も育っているだろうなぁ、などと思ったりもした。そして、あとがきのところをみたら、ゼミでの活動の模様なども描かれており、多くの人々が充実した卒業研究をして、ギョーカイに巣立っていったことがわかる。
 この本を読んで、言い回しをなぞりかえすだけでは、結局はお約束もの書きの域を脱することはできないだろうし、プレイスメントでも成果は得られないだろう。感覚的なものは、生来のものだろうからだ。それよりは、感覚的なものはすべて殺してしまう。センスがいいとか、ぬるいふやけた臆病な自負心を大事に大事にするようなまねはしないで、このような筆致の背後にある学識や教養というものを論理的に読みとり、大学の勉強に生かしてゆくようにするのがいいんじゃないかと思う。
 就職活動と大学の勉強はまったく別のものであるように思っているムキもある。しかし、なんか最近特に思うのだが、卒論を一生懸命やることではじめてプレイスメントにも心棒のようなものができるのではないかと思う。やたら業界ゴシップに精通し、他人が流す情報に一喜一憂し、企業のパンフレットに迎合するようなことを、おどおどと上目遣いで言いつつ、そのまんまの使えない自分を丸抱えで買って頂戴みたいなことをしているだけなら、そんな就職活動は三浦展氏の言う「下流なもの」でしかないだろう。その三浦氏はウェーバーの宗教社会学で卒論を書き、マガジンハウスでポパイ他の編集で活躍されたS氏は、夏休みにインドネシア調査を行い、「少なくとも修論レベル」と評価されるような非常にアカデミックな社会地理学の卒論を書いた人だった。
 難波さんは、学部では日本史を勉強された方だということを思い出しながら読むと、この本の品格みたいなものが、にじみ出てくる。とかくカタログ的な本というのは、どんなもんだいというようなイヤミがあるものだが、なつかしさも手伝ってなのだろうか、この本にはそういうものを感じない。そして、めくっているうちに、表紙の写真やロゴがカシャッと組み変わって、本当に言いたいことがヌラッとみえるような気がしている。「かっこいい腰巻き」もなかなかに考え抜かれたものなのだろう。戦後日本スタディーズ宣言もなされ、昭和30年代論で浅羽道明が久々に注目を集め、と自分が関心をもってきたことが、それなりのトレンドとなってきていることはうれしい限りだ。学派的なものなどは愚にもつかないと思うけど、誰かが社会心理史派みたいなものをまとめてゆく必要もあるんだろうなぁ、と思いつつ、新年会でご一緒した先輩たちの顔が思い浮かんだ。