元旦

 大晦日に年越し読書の本を買ってくるのは、毎年の恒例だが、今年は若者論の本を二冊とジェイのアドルノ論を一冊を買ってきた。アドルノ論は、まあついでに買ってきただけで、眼目は若者論のほうである。一つは、芹沢俊介の『若者はなぜ殺すのか――アキハバラ事件が語るもの』、もう一冊は湯浅誠・河添誠編『「生きづらさ」の臨界――“溜め”のある社会へ』である。前者は『アキハバラ発』の関連図書として、後者は大学生時代のゼミの先輩(と言っても私が学部3年の時博士課程に君臨していた人で仰ぎ見るだけだったのだが)が2人参加していたからだ。

「生きづらさ」の臨界―“溜め”のある社会へ

「生きづらさ」の臨界―“溜め”のある社会へ

アドルノ (岩波現代文庫)

アドルノ (岩波現代文庫)

 芹沢本はいろいろな論考をベースに、緊急出版みたいな体裁にまとめてあって、重宝だ。昔宮迫と上野のつるつる対談というのがあったが、「生きづらさ」本は、まこまこ本になるんだろうかね。おりしも、朝生で派遣などの問題が採り上げられていた。年越しの炊き出しをやっていたことが大々的に報道されていたことを思いだした。
 こうした問題を考えるとき、現実がどうのこうのよりも、社会のメカニズムがどうなっているかみたいに思考する自分の性癖みたいなものと向かいあわざるを得ない。そんなときに、ものを考える手がかりとなる本は少ないのだが、マルクスの生産力論や技術論を哲学的に探求していた先輩たちが発言していることは、貴重な手がかりである。そして、そのような議論が湯浅や河添の議論とぶつかり合っていることは、実に興味深いものがある。
 しかし、1月は忙しい、引っ越しの準備はもちろんのこと、各種書類づくり、いくつかの査読、原稿書き、科研の締めくくり、その他いろいろある。そう言えば、新年早々結婚式でのスピーチを頼まれたので、考えなくてはならない。まあ、通常は、その日の朝に思いついたことを核にして、あとはその日の出来事を適当に拾ってやればいいのだが、今回はちょいと順番が高いのである。会社の人が偉いけど若い方のようで固辞されたということで、こっちに回ってきたのだ。なんか申し訳ない気がしてならないので、そのあたりを話の枕にしようかと思っている。
 4月からうちの大学は学部改編となり、国際教養学部となる。社会学科も改組され、国際社会学科となり、国際関係、経済学、社会学の三専攻が誕生する。私の所属するのは、社会学専攻ということになる。国際社会学科だから、今まで以上に国際的なことを研究したいという人が増えるだろう。その辺に対応するためにはどうしたらよいか、考えてゆかなくてはならないのだろう。
 どうすればよいのかだが、一つは「アメリカ化」みたいなことを鍵語にして、『親米と反米』で書かれているようなことを手本にしてゆくことは、アメリ社会学思想史を研究してきた経緯からはすぐに思いつく。それは、すぐさま「グローバル化」というような問題と直結できるだろうからだ。来年度担当する国際社会学科の基礎科目ではその辺をにらみながら授業をすべく、シラバスを執筆中である。ウェルズの『プラグマティズム』における、いくらなんでも紋切り型のアメリカ帝国主義批判みたいなところから、アメリ社会学思想を考えることで、いろいろみえてくることはあるだろうとは思う。しかし、本当にやりたいことは、それだけではない。どうすればいいかいろいろ考えてみたいと思っているのが、まあ元日に思うことである。