京大式カードから東大式ノートへ?

 私が大学に入った頃、旬な文具といえば京大式カードだった。元祖兄弟では、靴箱に入れて整理していたというカードは、一アイディア一枚、適当に組みかえて、発想を組みかえてゆくノウハウのツールで、授業のノートをカードでとる人もかなりたくさんいて、生協ではカードボックスを製品化するということまでやり始めていた。これは、パソコンの普及とともに、あまり見かけなくなった。そんなことを思い出したのは、東大式ノートという記事が、『週刊文春』にあったからだ。「ドラゴン桜よりすごい200冊大公開」。うーん、すごいものが出たモンだと思った。本が出たのだ。東大生の高校時代のノート200冊集めて、ノウハウをまとめたものが。しかも、天下のコクヨさんが、ドット入り罫線ノートというものを出すらしい。
 高校生の場合方法に酩酊してしまうことも多いわけで、東大式のノウハウを活用できるようになるには、独力でこのくらいのノートをつくれるくらいの力がいるんじゃないかとも思うんだが、それでもまあ骨法を学んでおくことは、ノートをつくらないにしても、いいことじゃないかと思う。骨法というのは、6点にまとめられると、文春の記事にはある。七つの原則は「とうだいのおと」だっつぅんだけど、なんか結婚式の挨拶みたいで笑える。しかも、最後はキツイっしょ、みたいな。w

東大合格生のノートはかならず美しい

東大合格生のノートはかならず美しい

と=とにかく文頭は揃える。
う=写す必要がなければコピー
だ=大胆に余白をとる
い=インデックスを活用
の=ノートは区切りが肝心
お=オリジナルのフォーマットをもつ
と=当然、丁寧に書いている

 余白、区切り、文頭、丁寧というのは、まああたりまえと言えばあたりまえのことだと思う。「う」がまず、考えさせられた。コピれ、というのは英語の勉強なんかの場合らしい。同僚のA先生が、パワポは使わないが、プリントはパワポで配っているとおっしゃっていたことを、まず思い出した。区切りをして、ノート整理を後ですることを前提にノートをして、後で貼り付ける、とか。学生にやらせれば、卒論を書いてゆく自信になるかも知れないとは思う。自分ノートづくりをやるかと言えば、ちょっとなぁとは思うのだが。
 「い」のインデックスは、まあ自分でもよくやる方法ではある。ノートでやることは、したことはない。暗記の仕方が、視覚的丸暗記だったので、特にいらなかったからかも知れないとも思うし、だから受験勉強をはじめ、勉強がたいしてできなかったとも言える。じゃあなにをやっているかと言えば、別にパソコンではない。本である。清水幾太郎じゃないが、本に徹底的に書き込む。表紙の裏とかに、自分なりのインデックスを片っ端から書いておく。パソコンを使うとか、インデックスノートでもつくれば、累積していくのだが、なぜかしない。ひとつ論文や本を書くときに、まとまってノートをつくることはある。でもできたら捨ててしまう。パソコンのファイルも開かない。もちろん、だからダメだとも言える。
 フォーマットは窮屈なだけだが、受験では必要かも知れない。
 雑感は以上の通りだが、大教室の講義も、それぞれが書く答案なりレポートなりを毎回の授業を通して、仕上げてゆく、作業過程を顕在化させて、やりとりをして、最後に試験をするという形態もありかなと思った。ゼミならなおさらそうだ。授業も、ゼミも、調査実習も、卒論指導も、自分の思いつきを試し、話をしながら考えをまとめ、卒論指導を通して自分のアイディアを試論的に論文化する代理みたいなことをさせ、と、貪婪にやっているから、授業がわかりにくいのかな、などと思った。授業についての不平、不満じゃなく、内容的な批判くらいしてみろよなぁ、というような話を辛辣な口の悪い元教え子にしたら、それに値する授業とそうじゃないのがあるんだよ、と言われてしまった。