藤村正之『<生>の社会学』

 一昨日の夜から、一気に一本とりあえず書き上げた。書き上げちゃえば、覚悟が決まるから、あとは推敲するだけだ。あと二本まだあるが、ホッとして「志村屋」をみた。そしたら、大盛りカレーネタで、なんとメシが便器型に盛られていて、カレーを定位置にぶっかけて、さあ喰え、というネタをやっていた。昔、江古田にカレーが肥桶で出てくる店があったのを思い出した。その江古田の大学にかつて勤務していた後輩の藤村正之氏が、新著を出された。仕事であまり新刊チェキしていなかったので、いただいてはじめて気がついた。恐縮するとともに、お礼申し上げたい。まだめくった程度だが、一応ここに書き付けておきたい。

“生”の社会学

“生”の社会学

内容紹介

「豊かな社会」の実現が「豊かな生」に結実していない日本社会.人びとの生命・生活・生涯を照らすことで,現代日本における〈生〉の姿が浮かびあがる.日常生活を普通に生きる人びとの充足感と生きづらさのなかに,〈生〉のリアリティを探究する社会学の試み.

主要目次

はじめに
I部 〈生〉を支える座標軸
1章 日常と非日常の社会学――文化的構図の変容
2章 仕事と遊びの社会学――相互浸透するパンとサーカス
3章 リスクと癒しの社会学――加熱と冷却の現在形
II部 〈生〉を彩る感情
4章 死別の意味への希求――災害死・事故死と悲哀感情
5章 老年世代の楽しみと翳り――ゲートボールが照らす時代の刻印
6章 言葉と心――『タッチ』の社会学的理解
7章 メディアが映す〈生〉――日常性のなかの深層
III部 〈生〉が問われる時代
8章 〈宴の終わり〉とその後――世紀末・日本社会の解読
9章 〈生〉の社会学のために
おわりに
http://www.utp.or.jp/bd/978-4-13-050168-2.html

 福祉と文化、師匠の副田義也先生譲りの二刀流、とは、とある大家が藤村氏についておっしゃっていたことである。二つの領域をなぜ?ということは、私も前々から思っていたことである。本書のタイトルは、その疑問に対する回答にもなっている。タイトルの横に、“A Sociological Approach to Life”という英タイトルが添えられていること、そして帯に「生命・生活・生涯を問いなおす」と書かれていることなどにも注意したい。あとがきには、藤村氏にしては意外なくらい情感のこもった筆致で「<生>の社会学」の来歴について語られている。タイトルがタイトルだけに、ちょっと心配になったほどである。しかし、それはあまりに考えすぎの杞憂だと思う。ラスト2段落に歌い上げられた文章も、タイトルの雄弁な説明になっているだけのことだろう。しかし、自分なりのケジメの本であることはたしかである。このあとがきだけでも、とりあえず立ち読みでもしてみることは、おすすめしたい。
 藤村氏は、「センターを守る」ということをよくおっしゃっていた。これは、新睦人先生が学会誌に書かれていたことで、調査も理論もこなすというくらいの意味である。藤村氏は、実際にそれを長いこと実践してきた。そうした実践を踏まえ、すべての章が、古典、二次文献、調査報告書などを整然と整理した上で、土台をつくった上で、書かれている。整理は、無理矢理図式をあてはめたようなギスギスしたものではないし、整理の得意げだけがだらしなく馬鹿面をさらしているようなものとも違う。見通しがきいていて、論理はふっくらとしていてエレガントである。本を読んだり、講義を聴いていたりすると、そのときだけなんだか自分も頭がよくなったような気になるというような類のものである。
 グロテスクなものでもいいから、ガツンと来るなにか、ストンと落ちるなにかを、空元気でもいいからシャウトしてみせろ、というような言いがかりのようなジェラシーを禁じ得なかった頃から、藤村氏の『タッチ』に関する並々ならぬこだわりは、感じてきた。その論考が本書にも収められている。
 昔は不良でも気どらないと立つ瀬がないような気がしたものだ。しかし、今は、端正な文章のなかに、藤村氏の「存在の金切り声」のようなものが感じ取れるような気もする。わずかなときでも、机をならべて勉強ができたことは、私にとり本当に幸福なことだったと思うし、自分のやってきたことにもなんだか寛容な気分になることもできるような気がする。それは読後の一時だけのことなのかもしれないが、著者の人となりと同様、この本もそうした励ましを与えてくれる本であるような気がする。