三浦展『下流大学が日本を滅ぼす!』

 今大学は一斉休暇中。いろいろ工事をしていて、研究棟のある建物は断水状態にある。隣の建物まで、トイレに行かなくてはならない状況で、家で仕事をやっていたのだが、資料を取りに来る必要があったし、いろんなログインの必要もあって、仕方なく学校に来た。郵便受けをみたら、三浦展氏から本が届いていた。恐縮するとともに、お礼申し上げたく思う。こんどの本は大学論で、下流社会論を大学論として展開したものだ。「ひよわな“お客様”世代の増殖」という副題がついている。タイトルには、オッタマゲーションがついている。でもって、腰巻きには星一徹が「いいかげんにせーい!!」とダブルオッタマゲーションで激怒している。ランニング日焼けしていないのが若干残念だったりする。曰く「幼児化する学生、クレーマー化する親、こんな大学はもういらない!!」。「こんな若者が明日会社に入ってくる!!」。なんともインパクトのあるコピーで、もういいよ!という食傷はゆるさじ、とばかりに語りかけてくる。これだけで、まんまとオーバーヒートしてしまう人は、とりあえずあとがきを丹念に読んでから、読み始めた方がいいかもしれない。

下流大学が日本を滅ぼす! (ベスト新書)

下流大学が日本を滅ぼす! (ベスト新書)

大学はみずからの保身のためにバカ学生を大量生産して社会に送り出し、社会の活力を阻害している。
としたら、大学行政というのは、不要な高速道路を大量に造って国民の借金を増やしてきた、あの悪名高い道路行政と同じではないか?本書では、ひよわで、甘えん坊で、自己愛の強い学生、新入社員の実態を探り、さらに、そういう若者を生み出す入試制度、教育制度にメスを入れ、まともな人間を生み出すための処方箋を示す。
プロイラーとして育てられた若者は、流れてくる餌を横一列に並んでついばむだけである。
それでは社会で通用してない。
その意味では現代の子ども、若者も社会の犠牲者なのだ。


第1章 大学がバカ学生を大量生産する(偏差値48の高校からでも上智大学に推薦入学できる;私立大学では一般入試での合格者が半数以下 ほか)
第2章 お客様化する学生とモンスター・ペアレンツ(今の大学教師はファミリーレストランの店員みたいなもの;クレーマー化する親 ほか)
第3章 バカ学生は社会では通用しない(今の新入社員は大人免疫力がない;お客様大学生からお客様社員へ ほか)
第4章 「大学貧乏」の登場(大学生のいる家庭の平均年収は低下;教育費に圧殺される家計 ほか)
提言 オンライン大学で下流脱出を(教育制度改革の提案;大学進学率は20%に ほか)
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-ISBN=4584121923

 とにもかくにもなにもかも驚き桃の木山椒の木というかんじなのだが、大学教師としてさほど不思議なことが書いてあるとも思われない。むかしはこういう類は、中野収先生の十八番とも言っていいもので、多くの事例を紹介してきた。ゼミ合宿にむかう自家用車のなかで談笑するのではなく、ウォークマンを聴いている学生の例などは、中野先生の社会学理論とも関わり、とりわけ印象深いものである。今回は、いろいろな事例をあつめて、本が綴られている。事例は、私的なネタ感覚に照らしても、興味深いものがかなりある。笑いものにするため先生を盗撮とか、就職書類で志望先を「弊社」などは、抱腹絶倒だった。私の場合、盗撮というよりゼミでナベアツの3みたいな表情をすると、バシュッといかれたりとかしたな。
 文体といい、内容といい、かなりオッタマゲーションなインパクトを読者に与えるものであり、痛快さに萌えるひともいるかもしれないが、敵もつくりやすい内容になっていると思う。三浦氏自身、一人の親として、看過できない問題を感じているのだと思うし、ともかくも議論を喚起することにまずもっての狙いがあったからではないかと思っている。*1
 議論としては、やはり下流社会論の延長線上にあるだろう。まあ言ってみれば、ファストフード化する大学みたいなこと。よりよく消費する。ロハス、ボボスは、学びにおいてどう具現されるのか。グローバル化する大学の国際競争力みたいな議論では、下流社会論は片付かない。そういう議論でおさまならい部分に、高度な消費=市場開拓を読むところのに下流社会論の最大の特徴があるからだ。
 実は私は、ここに書かれている事例、――つまりは、学生が、爆(´・ω・`)ショボーンであることや、メンヘルモンペアの類、――については心当たりがないではないが、同時に可能性のようなものも感じている。高等教育が大衆化するなかで、学徒動員、敗戦、戦後復興、学生運動、シラケ、バブル等々いろいろあって、まあいろいろあったし、常に「今どきの若い者は」などと言われてきたけれども、でも現在の今どきの若い者にくらべれば、学びは随分マシだったということになっているわけだ。ほんとうにそうなんだろうか?
 外国を崇拝したり、嫌悪したりしながら、むずかしい知識を学んだ気になってきた。思想家やジャルゴンをならべたてて、先生が「どうだわからなかったろう?」と言われると、目を輝かして、知識欲的アドレナリン全開にして。夢を持った学生は、いろんな職業に憧れ、そのギョーカイの著名人の言説を引用して、その点についてはまるまるさんがどうたらこうたらとか、面識もないのに「さん」づけで呼んだりして、事情通の会話をしたり。大学に入ってから、なんかそういうのって、鬼嘘くさいと正直思ってきた。ろくに学校も出ていない、祖父母両親が、新聞を読んだり、小説を読んだり、百科事典をボロボロになるまでまわし読みしたり、私が大学で聴いた講義を清書したノートを食い入るように見て、政治や社会の話をしたり。そういうなんとも俗流な、しかし、純化されたどん欲な学びの衝動に比べれば、高等学術の知も智も貧しい、スノッブなものにしか見えなかった。これは、今思えばのことで、私は学力も低く、教養もなく、所作振る舞いも下劣で、一生懸命つま先立って見栄をはった。できる奴らの、穏やかで皮肉なまなざしはかなりキツイものがあった。へこむことなく、要領よく振る舞ってきた。
 今どきの若者は、非常に正直に知と向きあっているという面もあると思う。いろいろな問題行動と大きな可能性が揺れ動いているように見えることもある。そういう目でみてゆくと、あとがきに紹介されているフリーライターの紹介がとりわけ目をひく。そこには中卒の学びへの信頼と尊敬が描かれている。三浦氏の提示した処方箋は、この人物像に集約されているのだろう。旧知の人間として、ここには嘘がないことはよくわかる。逆に、ゆるい言説にこだわる人たち――私自身もゆるさにこだわるひとりだけれども――のなかに、――つまりは自分のなかに――ぬぐいがたいエリートの残滓をみることもある。無防備に浮かび上がる侮蔑の表情だったり、頭がいいという形容へのこだわりであったり。そういう嘘くささは、高等教育が積み重ねてきたもの嘘くささとも重なる。大学進学率を下げろという――もしかすると高校進学率も下げろとも言うだろう――三浦氏の処方箋もよく理解できる面もある。そこに学びの可能性があることは、ライターの人や、私の家族の例からも実感される。しかし、大学につとめるものとしては、意外にいいかもしれない学生の学びに目を凝らして行くしかない。そういう意味で、とても嫌な読後感である。しかし、それこそが、本書の狙いなのだろうと思う。

*1:一種の戯れ文であるのか、いささか異例な文体が採用されている。今までに一度だけ、言い争ったことを思いだした。丸谷才一に対する田中克彦の批判をめぐって、随分長い時間議論をした。三浦氏は、丸谷才一的な言説に同調的であり、私はパロールへのこだわりがあった。そうした地点から、現在の文体が練り上げられたということも、個人的には非常に興味深い。