樋口裕一『ホンモノの思考力』

 はやしまるにラーメンを食べに行った。太麺がひょろひょろ口の粘膜を刺激し、噛むとよい香りが鼻に抜けるような感じの美味しさは、もうアディクションものである。実は、担々冷麺というのが出てきて、自家製細麺だお、みたいにかいてあったので、すげぇ喰いたくなったのである。ところが、店が近づくとやっぱし塩ラーメンが食べたくなり、でもって席に座って迷ったあげく、隣の人が食べていた味噌つけ麺にしてしまった。
 帰りは庚申通り商店街から早稲田通りをこえ、大和町、都立家政から、新青梅街道へ。そのあたりから雷がごろごろしてきた。たまたま手ぶらで、ウォークマンもしていなかったので、降ったら降ったで湯気が立つほど歩いてやると思って、スピードアップして、西に向かう。そしたら、千川通りを越えたあたりでktkr豪雨。もう一瞬でずぶ濡れ。濡れ鼠だと歩きづらいんだよな。そう言えば着衣泳はシビアだといっていたが、こんなモンだろうなぁ、などと思いつつ、負けちゃいけない負けちゃいけないと、エヴァのパチンコをしている気持ちで雨の中を突き進む。稲光と豪雨のなか、眼をランランと光らせてあるくちゃびぃな半魚人みたいなカンジ。路地から出てきた女の人が馬路ビビっていた。一時やんだが、ふたたびktkr豪雨。余裕でジムで泳げたはずが、二時間たってもつかない。しょうがないので、武蔵関すぎで、バスに乗った。乗ったら、客がびびるかと思ったら、けっこう同情的な目で見てもらった。運良く車いすスペースの着いたバスなので、そこで肩で息をしながら、吉祥寺へ。そのあとジムで一時間ほど流して泳いだ。歩行距離は約10キロくらい。
 樋口裕一『ホンモノの思考力―口ぐせで鍛える論理の技術』を新宿のジュンク堂で買った。ジュンク堂には論理的思考、シンキングパワーなどの本を集めた棚があった。そこでひときわ売れている本があり、なにかと思ったらこれだった。私は、予備校はなぜ面白いか、みたいなことを論じた本が非常に興味深かったので、それ以来この人の本は読むようにしている。売れっ子になるにしたがって、けっこうやっつけ仕事じゃないかなぁと思うような粗っぽい例示や論理回しが眼につかないこともないが、押さえるべきところはバシュッとスジが通っていて、読者の理解にストンと落ちる書き方になっているのは、さすがプロフェッショナルという感じがする。

ホンモノの思考力 ―口ぐせで鍛える論理の技術 (集英社新書)

ホンモノの思考力 ―口ぐせで鍛える論理の技術 (集英社新書)

内容(「BOOK」データベースより)
あなたは論理的な思考のできる人だろうか?知性をもった話し方で、自分の考えを示しているだろうか?議論の最中に話の筋がずれてしまったり、周囲の失笑をかったりしたことは?本書は、二項対立思考、型思考、背伸び思考といった著者独自の方法論で、知的に見える話し方や他人の意見の知的な分析方法、スルドイ質問や反論の仕方などを伝授する。そして、最終的に「ホンモノの思考力」を手に入れることを目指すものだ。まずは、「口ぐせトレーニング」から始めてみよう。見よう見まねで言葉にするうちに、考え方の基本が身につき、論理の技術も手に入る。もうこれで、バカとみなされることもない。議論も会議も怖くない。あなたの知性はホンモノになる。

フランスに行ったとき、なんてフランス人って論理的なしゃべり方をするんだろうと感心した・・・、と著者は書き始めている。こういう観点から見るとこうなるだとか、第一に、第二に、第三に・・・だとか。こんなふうにたたみかけられ、絶句しちまったこともあるんだぜ、って、まあこれはよくある話でしょ、みたいに思っていたら、ここからが違った。どう違うのか??
 最初はビビっていた樋口なんだが、だんだん慣れてくると、え?と思うことがあったらしいのだ。「それは○○だ。理由は四つ。第一に、第二に、第三に」。そうフランス人は言った。それちげくね??一つ端折ったの??みたいな。そうじゃなくって、あっちの人は、そう言う論理的にきこえるようなパターンを多く知っているだけぢゃね。だったら、そのパターンを覚えてしまえばいいんじゃねぇ。つぅことで、副題の「口ぐせで鍛える論理の技術」ということになる。完璧につかみはオッケー。・・・この辺の論の起こし方は、さすが小論文樋口ぢゃんみたいに思ったりもした。
 まあ学会報告とか、論文とか、研究会とかなんかでも、論理的っぽく話しているのはよくみかける。で、そんなに底意地悪くものをみているつもりはないのだが、それでも、ッポイだけで、言い方のパターンをみようみまねだけ、みたいなことも、目につかないこともない。あるいは得意の論理回しがあって、カメラ目線でそれをやっちゃったりしているのを目にすることもある。カラオケで小指たちまくりのきかせどころみたいな。あるいは、「オレそういう女の子って嫌いだな」とかいう類のキメセリフみたいな。でも、ともかくそういうみようみまねを、上級生や先生や友だちにバカにされたり、たまにほめられたりしながら、そこそこものが言えるようになってゆく。
 私の知り合いでそういう言い回しの大嫌いな先生がいる。その先生が、ある時激怒していたことがある。ゼミの1年で、「その論点は」などと議論をふっかけ、他のゼミ生を圧倒したのがいるが、実にけしからん、生意気な言い方をしやがって、というわけだ。この先生の場合、ひらがなの多いことばで、語りかけるように、問いかけ的な話し方をすると、(・∀・)イイ!!と言われる。まあだから、そんなこともあるということに留意しながら、口癖で鍛えれば、それなりの成果はあがるんじゃないかと思う。
 口癖で鍛える社会学とか、口癖で鍛える卒業論文とか、あるといいな、とは思うんだが、前者はともかく、後者は自分で書く気はしない。というか、書けはしない。イイ卒論の思考力は、イイ論文をたくさん読んで、理論構成と理論展開と論証の仕方についての鑑賞力を鍛えるのが普通のやり方だろう。そんなことしか思い浮かばないからだ。受験知からみた卒論って、どうなるのかね。「例の方法」とかあったら、笑えるけど。樋口の本を読んで、桃太郎侍の成敗の舞いのような卒論が続出したら、面白いだろうな、とか、思いつつも、なんか書いてくれないかなぁ、などと期待してしまったりする。
 しかし前者はブラックだよな。社会科学の女王を標榜する経済学において、「社会学的ですね」というのは、記述的という形容とならんで、侮蔑らしいのである。どういう状況において、社会学的ですね、という言葉が使われるかというのは、動機の語彙論から言っても、社会学的想像力論から言っても実に興味深い。井上章一が文化論の本の中のコラムで、社会学者は肝心の話題に入る前にかならず一理屈こねる。これが実にウザイ。そんなことを言っていたのを思い出した